京の川巡り 第11回 鴨川
都市河川としては、もっとも愛される川
京都の川で鴨川ほど多くの人々に親しまれている川はない。京都市中の人びとは、この川に沿って歩きながら、あるいは架かる橋を行き来しながら日々の暮らしを立てている。また、訪れる旅人たちも、鴨川を目にしながら束の間の滞在を楽しんでいるはずだ。
市内の繁華街を貫く四条通は、四条大橋で鴨川を渡る。右岸は先斗町、左岸には祇園東、祇園甲部、宮川町と、「京都の五花街」のうち4つもがこの川に沿うようにある。季節を問わず水の流れに引き寄せられるかのように、人は河畔で和む。中でも夏は涼を求めてひときわ人が多くなる。夏の訪れが市中に漂い始める毎年5月1日は、川に沿う右岸の店々が川床を設える日だ。納涼の風物詩は、風がようやく冷ややかになる10月15日に幕を閉じる。
三条大橋から四条大橋の界隈では、河川敷に多くの人が腰掛け、語らっている。このあたりだけではなく、鴨川には随所に、堤防の内側へ降りていける階段やスロープがある。鴨川の河川敷は、かなり上流から下流まで遊歩道やサイクリングロードとして整備されているのだ。水とともにある人の文化を研究する京都産業大学教授の鈴木康久さんはいう。
「都市河川としては、日本全国を見ても鴨川ほど愛されている川はありませんね。その理由は適度な大きさの川だということでしょう。例えば、三条大橋や四条大橋の辺りの川幅は70mほどです。大雨が降ると増水がすごいですが、普段はそんなに深くなく川底が透けて見えるくらいというところも、多くの人が川の近くまで惹き寄せられるゆえんですね。三条から四条までは若者の空間でしょうか。このあたりはベンチを据えなかったのがよかったと思います。川端に座るのとベンチに座るのでは、水面を見る感覚が違ってきます。近年は外国の方々も多く、観光地的な色合いも強くなっていますが、三条大橋から上流は、人もまばらになって、市民の憩いの場としての色合いが濃くなってきます。こちらには点々と休憩できるようにベンチが据えてあり、人びとはウォーキング、ジョギング、あるいはサイクリングを楽しんでいます。こうして、人と川の距離が物理的にも精神的にも近いところが鴨川の大きな魅力です」

三条大橋から南方を望む。河原には常に人が連なる。

四条大橋西詰からの光景。手前には川床が、対岸側には南座が見える。
三条から五条の賑わいは鴨川とともに生まれた
鴨川は京都市北区と右京区京北の境界にそびえる桟敷ヶ岳(さじきがたけ、895.9m)が水源だ。東南の麓は雲ヶ畑という。あたりは山々が幾重に折り重なり、水の流れが谷をうがって幾筋も流れ出ている。こうした支流を集め、また、もうひとつの川床で知られる貴船川、花脊峠を源にする鞍馬川も合流して京都市中心部の東側を流れていく。そして、東海道本線の高架を越えて伏見区に入り、上鳥羽南円面田町で桂川に注ぐ。全長は約27km。鴨川の流れを合わせた桂川は、やがて宇治川、木津川と合流して淀川となって大阪湾に注ぐので、水系をいう際、鴨川は淀川水系となる。
京都の人びとや旅人にも深く愛され、京都の暮らしに近い川は、人びとによって何度も手を加えられてきた。それは、洪水への備えのための堤防工事であり、田や畑の耕作、市中での商いを支えるための運河の開削工事だ。天正19年(1591)に豊臣秀吉が「御土居」を築造したのは広く知られるが、これが堤防であったのか敵を封じる城壁だったのかは定かではない。店も民家も建たない河原は広く、中洲もあり、御土居ができてからも市中では対岸まで400〜500mもあった。京都盆地に入ってからの鴨川は、土地の傾斜が緩くなったため右に左に蛇行しながら流れていたのである。
その以前から河原は遊芸の地であった。今、歌舞伎の吉例顔見世興行が行われる南座の脇に「阿国歌舞伎発祥地」と刻まれた碑が立つ。また、四条大橋東詰の北側に阿国の像も立つ。だが、発祥地を決定付けるほどには、史書の記述はそろわないらしい。正確を期すならば、慶長8年(1603)に阿国とその一座が北野天満宮や女院御所で踊ったのが、歌舞伎の始まりとされる。奇しくも、この年は徳川家康が征夷大将軍に任命され、いよいよ江戸を本拠地にその後長きに渡る徳川政権が始まった年である。内乱の最中には鴨川の河原や中洲での芝居は禁じられていた。阿国の歌舞伎は、その妖婉さとともに平穏な時代の口火を開くものとして迎えられたのだろう。
江戸開府から半世紀以上がたった寛文8年(1669)から3年かけたとされる大工事により、鴨川は今の景観により近付いていく。「寛文新堤」といわれる護岸工事である。今の今出川通から五条通までの両岸を、石積みによって補強し、高く積むことで堤防としても機能するようにしたのだ。幕府の命による公共事業で、そこには慶長19年(1614)に開削された運河、高瀬川が物流の大動脈になり、それを鴨川の洪水から守るという意図があった。居住地、商業地と河原を明確にする考えもあった。寛文新堤が完成したころには、河岸に芝居小屋もでき、それまで河原や中洲に掛けていた川床も、次第に今のような店から張り出す形になっていった。特筆すべきは、寛文新堤の三条から五条の間などの管理が川辺の町衆に任されたところだ。遊芸の地は自前で守ったのである。橋も同じだ。三条大橋、五条大橋は街道のために幕府が整備した官製橋だが、四条大橋は町衆が自前で架けた民製橋だったのである。

都名所図会に描かれた「三條大橋」。画像提供/国際日本文化研究センター

五条大橋のたもとには、歴史や特徴を記した看板がある。
出町から上流は賀茂氏の歴史を感じて歩く
50代以上の方なら、鴨川に沿って京阪電車が走る風景を記憶しているはずである。京阪電車は明治44年(1910)に五条から大阪の天満橋からまで開通し、5年後には延伸されて三条が発着駅になった。それから70年以上、京阪電車は地上を走っていた。大阪へ向かう電車の車窓からは右側に鴨川が見え、左側にもうひとつの川が見えたはずだ。左側は明治28年(1895)に竣工した鴨川運河で、伏見区堀詰まで流れる。明治の新時代に、鴨川の本流を挟んで西に高瀬川、東に鴨川運河と物流の動脈が整備された。この鴨川運河は、京阪電車の地下化に合わせて三条から塩小路まで川端通の地下を流されることになった。そして、京阪電車は鴨川のさらに上流まで地下を延伸された。出町柳が発着駅になったのは平成元年(1989)のことだ。この頃に現在見ることができる鴨川の風景ができたのである。
出町は鯖街道の終着点としても知られる。桝形商店街は今も健在で、昭和の香りを漂わせながら地元の人びとを支えている。商店街の入り口近くの和菓子店は遠方からも訪れる人が多く、いつも長い列ができる。近隣には京都大学、同志社大学、京都府立大学が並び、若い人たちの姿が絶えない。また、賀茂川はここで東から流れてくる高野川と合流する。ふたつの川の合流点は三角の空き地になっているため「鴨川デルタ」と呼ばれている。ここには、両岸から飛び石が置かれ、若い人たちや近隣の親子はもとより、どこで情報を得たのか外国人観光客まで渡っていく。ここでも人と川との距離は、物理的にも精神的にも近い。
古くから合流点から上流を「賀茂川」、合流点から下流を「鴨川」と呼んできた。今でも、それはかなり浸透している。「鴨」の字が充てられたのは、下鴨神社の名から取られたとも、合流のY字が鴨の足に似ているからだともいわれる。

賀茂川と高瀬川が合流する「鴨川デルタ」は、市民にとっても憩いの場。

賀茂川には渡れる飛び石が数か所ある。東の方へと目を向けると比叡山が見える。
賀茂川にも両岸に遊歩道、サイクリングロードが続く。河川敷の整備区域が広いのは右岸のほうだ。出町付近に桂川との合流点から15kmと示す標識がある。鴨川としての全長のだいたい中間地点だ。右岸を上流に向かって歩くと、次第に木々は太くなり、草花も豊かに咲き、たくさんの水鳥たちを見かけるようになる。対岸は鬱蒼とした森が続く。下流から下鴨神社、京都府立植物園、上賀茂神社だ。その間は約3kmにもなり、また「賀茂川」が、平安遷都の前からこの地を治めていた賀茂氏に由来があることもわかる。今ではともに世界文化遺産「古都京都の文化財」の構成要素である下鴨神社も上賀茂神社も、賀茂氏の氏神さまを祀る神社として創建され、平安遷都の後に皇城鎮護の社となった。前出の鈴木さんはこう話す。
「大和の豪族だった賀茂氏が今の京都にやってきたのは、5世紀後半から6世紀だろうといわれています。どうして落ち着き先を鴨川の近くしたかといえば、やはり水です。鴨川は、たとえば桂川と比べると小さく、田畑に川の水を引きやすかったのです。上賀茂神社の御手洗川(みたらしがわ)は鴨川から取水されており、境内で御物忌川(おものいがわ)と合流し、社を出ると明神川になって上賀茂、下鴨を潤してきました。これが象徴的です。水を引くことで暮らしが成り立ち、古社は水の源に水を崇めるものとして創建されたと考えています」

下鴨神社南側の糺の森を流れる“瀬見の小川”。静謐な環境の中、散策できる。
水質汚濁を乗り越え鮎が遡上する川に蘇った
そんな鈴木さんが学生たちと鴨川の源流部、雲ヶ畑を訪ねるというので同行した。この地で桟敷ヶ岳から流れ出る岩屋川と魚谷山を源とする中津川が合流する。河川法では、そこから下流が「一級河川鴨川」だ。岩谷川の源流部には志明院が立つ。住職の田中量真さんも加わって鈴木ゼミの学生たちに促されて境内を歩く。田中住職はいう。
「当寺は鴨川源流の守護を司る山の神を祀る修験道の山として開山され、その後に仏教も取り込んで不動明王を主祭神にした真言宗の寺になりましたが、典型的な神仏習合の信仰の場です。皇室の庇護する聖域となってきましたので、俗化を免れ、神降窟から滴り落ちた水の流れに沿って自生する植物も多いです。京都にとって鴨川がどれだけ大切か。境内を歩かれると、それをわかっていただけると思います」

北区雲ケ畑にある岩谷山志明院。地下鉄北大路駅より雲ヶ畑バス「もくもく号」で雲ヶ畑岩屋橋下車。
このように多くの人びとに愛され、さらに守られている鴨川だが、じつは受難の時期もあった。昭和10年(1935)6月に起きた鴨川大洪水では三条大橋や五条大橋をはじめ30以上の橋が流失して甚大な被害があった。このため昭和11年(1936)から11年かけて鴨川を3m掘り下げて30基以上の落差工を設置した結果、鴨川は平らな水面と滝のような落差がある階段のような景観に変わってしまった。1m以上の落差があると海から遡上してくる鮎は遡上することができないため、鴨川の上流では天然鮎が見られなくなった。それでも、琵琶湖疏水の余剰水が二条通りの上流側から鴨川に流れ込んでいるため、疏水を流下してくる琵琶湖産鮎が鴨川下流域で生息していた。とくに京阪電車の出町柳〜七条間の地下鉄工事を行った昭和54年(1979)からの10年間は琵琶湖疏水の全流量を鴨川に放流していたため、鴨川下流域には鮎が多数生息し6月の解禁日には三条から五条の間には鮎の友釣りを楽しむ人の長い竿が並んでいた。
一方、高度経済成長期には、社会やライフスタイルの変化に下水道整備が追い付かず、鴨川に工場排水や生活排水が流れ込み、水質汚濁がどんどん進行した。このため、1970年代には染織工場からの排水によって高野川や鴨川左岸沿いには川底が見えないくらい濃い紫色の水が流れて、川底にはヒルやアカムシのような汚泥にも住めるような動物しか見られなくなった。とくに昭和63年(1988)以降は、鴨川の流量が減少し水質も悪化した結果、釣り人の姿が見られなくなった。
竹門康弘さんは京都大学防災研究所に長く勤め、現在は大阪公立大学の客員研究員だ。研究活動の一方で、生物多様性保全の観点から川と関わり、研究者と市民が一体になって保全活動を行う「京の川の恵みを活かす会」を主催してきた。
「鴨川の水質がよくなったのは、工場排水の水質規制が徹底し下水道の整備率が上がった1990年代後半からです。この頃、大阪湾に近い淀川河口堰にも魚道ができました。鴨川の鮎は秋に下流域で産卵し、孵化すると海まで降って大阪湾沿岸で成長し、翌春に稚アユとなって淀川を遡ります。初夏には川底の苔を食んでその川独自の味と香りに育っていくんですね。淀川から鴨川下流の堰まで鮎が遡上し始めたのを見て、私たちは2011年から鴨川にも魚道を作りました。鴨川にある堰のうちは龍門堰、今井堰、三条落差工、丸太町落差工は落差が大きく鮎が上り難かったのですが、これらに魚道を設置した結果鮎たちは荒神橋まで遡ってきて、2015年には出町柳でも大阪湾から遡上してきた天然鮎が確認できました。鴨川にはアマゴもいるんです。アマゴの中には大阪湾まで降りてサツキマスになって鴨川へ戻ってくるものもいます。京都ではオイカワ(ハエ)もよく食べられてきました。とくにハエの体長3−4cmの小魚は“鷺知らず”と呼んで珍重されてきました。このように京料理は元来、川魚を食材の主軸とする川魚文化と言えそうです。『活かす会』の活動を通じて『さかな』の語源が『酒菜』であることを知りました。『さかな』を『酒菜』として楽しめる豊かな川魚文化が蘇ってほしいものですね。じつは、人が食べ残した残飯は川に流れ込めば食物連鎖を経て魚たちの栄養になるのですが、広域下水道が整備された今日では鴨川に流入しないため、川の生き物からすれば栄養不足になっています。川の恵みを豊かにするためには、集落ごとに浄化槽で浄化した処理水を川に戻す仕組みに戻るのが望ましいと思います。近年の鴨川では下水が鳥羽の下水処理場まで運ばれてしまい河川に戻らないため、渇水が頻発しており真夏になると水温が30℃を超えてしまいます。鮎は34℃になると死んでしまうので、真夏には25℃の湧き水がある三条落差工や四条落差工のどんど(深場)に逃げ込みます。これは“鮎の土用隠れ”と呼ばれており、鴨川の自然の営みの一つです。鮎が無事に極暑を乗り切るためには、鴨川の深みに湧く地下水の保全が不可欠です」
鴨川の白く波立つ流れを作るのは落差工だ。洪水対策のための治水施設だが、人と生き物の共存の立場からは、少し減らしたり落差工の下に深い淵を維持したりすることが必要かもしれない。川の美しさの保全のために京都府は「鴨川条例」を制定し、平成20年4月1日施行した。鴨川は京都の文化財ともいえよう。鴨川のほとりを散策される際には、こうした歴史や現況にも思いを巡らせてほしい。

1980年代の鴨川風景。二条大橋下流の鮎解禁日(左)、 団栗橋下流の鮎解禁日。撮影/市村 実(川酒菜其の三より転記)

三条落差工に設置工事中の木組み箱型魚道。撮影/竹門康弘

2016年に鴨川の荒神口魚道を遡上したアユの記録。写真撮影/中筋祐司(川酒菜其の三より転記)
主要参考文献/鈴木康久・肉戸裕行著『京都の山と川〜「山紫水明」が伝える千年の都』(中公新書)
川魚文化再生プロジェクト・京の川の恵みを活かす会編集 (2018) 川酒菜 其の三. 58pp.
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【PDF】鴨川ウォーキングジョギングマップ |
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