京の川巡り 第13回 鞍馬川
川と深く結び付いた暮らしが残る集落
花脊峠(はなせとうげ)は、京都市左京区の北部にある急峻な峠だ。最高地点は759mにもなり、国道477号の道幅は狭く冬は積雪することも少なくない。車社会になった今でも、京都市随一の難所だといえる。峠の北の花脊別所町から東の大原百井町(ももいちょう)の山間は、長い間、祇園祭の際の厄除け粽(ちまき)に使うチマキザサを提供してきたところである。大ぶりの葉で、香りがよいうえに葉の裏に毛がないため加工しやすい。江戸時代前期に儒医で歴史家の黒川道祐(くろかわ・どうゆう)が著した地誌、『雍州府志』(ようしゅうふし)には「他産不堪用」(他産地のものは用に堪えない)と記されている。このチマキザサが近年、一斉開花の後に枯死し、新しく芽吹くと鹿の食害にあうようになってしまった。そこで始まったのが、地元の人びとと京都市が連携し、サポーター企業も加わっての「チマキザサ再生プロジェクト」だ。

鞍馬川では、かつて水車も使われていた。

粽に使用されるチマキザサは、トラックで大量に出荷されていた。
人と生きものの共生の実践拠点でもある花脊峠、その周辺の山並みは桂川水系と鴨川水系の分水嶺となっている。花脊峠の北に流れ落ちる別所川は桂川に合流し、南面を水源に貴船川と合流して左京区静市(しずいち)と北区西賀茂の境で鴨川に注ぐのが鞍馬川である。鞍馬川は全長約4.6kmと長い川ではない。川幅も4mから9mの間を広狭しながら流れていく。ただ、流域には木々が豊富で、まるで森を京都市中心部の入り口まで運んでくるような川だ。そして、最上流部の鞍馬の集落には川と深く結び付いた暮らしが残っている。
かつての愛宕郡(おたぎぐん)鞍馬村は上流から鞍馬、貴船、二ノ瀬の大字があった。その後、昭和24年(1949)に京都市左京区に編入され、鞍馬は鞍馬本町になった。京都三大奇祭に数えられる鞍馬の火祭りで知られる由岐神社の氏子総代、松本道和さんはこう話す。
「私らが子どもの頃には川でよくアマゴを獲りました。魚獲りの上手なお爺さんがおってね、その人に教わったんです。ウナギやゴリも獲れましたわ。今でも賀茂川漁協がアマゴなどを放流しているので、釣り人は少なくないですよ。60代の私らが子どもの頃は、学校にプールがなかったものですから、鞍馬川で水泳の授業をしていました。浅瀬が多い川なんですが、ところどころに深みがありまして、当時は地区ごとに4か所がプール替わりになっていました」

鞍馬街道を花脊峠の方へと向かうと、緑豊かな森の中を流れる鞍馬川を目にできる。
鞍馬川の水源となる花背峠には、百井側と鞍馬側に独特の石材が産する。「鞍馬石」とも「京都の赤石」ともいわれ、古くから庭石として全国で尊ばれてきた。鉄分を多く含んだ花崗岩の一種で、表面が赤茶の錆色に覆われ、また紋様となって現れたりする。岸本芳明さんの家は代々庭石を家業にしてきた。集落の歴史を写真でたどろうと、家々に眠る古写真を中心になって集めた人である。岸本さんが昔を振り返りながら説明してくれた。
「岩盤の錆が流れ出て赤茶色の流れがまぎれ混むことがときどきありますね。普段はおとなしい川なんですが、数十年に一度は大雨が降って川の水があふれ出ることがありました。なかでも昭和10年(1935)の洪水はひどいものだったようで、そのときの洪水が後になって鞍馬寺の山門(仁王門)を上げたんですね。洪水の前は、今よりも下にあったんです。水の災難はその後もあって、令和2年(2020)7月の豪雨では叡山電鉄の線路が崩れ、市原駅から鞍馬駅まで1年ほど不通になってしまいました。それでも、川沿いの家では鞍馬川の水を暮らしに使っていました。昔は水車を備えて石臼を撞かせて商売する家もあったんです。私も記憶にあります。杉の葉を撞いて粉にして、お線香を作っていました。昭和50年代まではやってはりましたね」

鞍馬街道を歩いていると、赤みを帯びた鞍馬石を見つけることができる。

昭和10年に発生した洪水は、鞍馬の集落に詰め跡を残した。
取水された水路が暮らしを支える
奈良時代の末、鑑真(688〜763)が唐からやってきて奈良に唐招提寺を開いた。鑑真は唐から高弟の鑑禎(がんちょう、722〜809)を伴ったが、この鑑禎が夢告を得て鞍馬山に草庵を建てたのが鞍馬寺の始まりといわれる。やがて平安遷都となって2年後、ときの有力官僚だった藤原伊勢人(ふじわら の いせんど)により鑑禎の祀った毘沙門天が発見され、それを鎮護国家のために祀り、また自身が帰依していた観音菩薩も祀って伽藍を建てた。こうして神仏混合の寺院として鞍馬寺の基礎がなり、鞍馬山は神の使いである天狗の棲む山として畏怖されていった。牛若丸(のちの源義経)が幼少期に鞍馬寺へ預けられ、仏教修行とともに天狗の指南で武術修行したというのは有名な逸話である。

叡山電車の鞍馬駅から鞍馬街道を数分歩くと、鞍馬寺の仁王門が見える。
鞍馬の集落は、鞍馬寺の門前町として家々が軒を連ねるようになっていった。両側に山が迫る狭い谷の下を鞍馬川が流れ、川沿いに鞍馬街道ができた。この街道は別名「雍州街道」(ようしゅうかいどう)ともいった。雍州とは古代中国の都であるが、平安京を表す美称、麗句として使われてきた。したがって、雍州街道とは美しい都との往来の街道の意味で、その名が冠されたところから、鞍馬詣が尊く、いかに重要だったのかもわかる。鞍馬寺の門前町だから古くから茶店や旅籠もできただろうが、集落の暮らしは山と川とともにある慎ましいものだったようだ。
今、集落の中央部よりやや上流の落差工が設けられているところから取水して、細いコンクリート製の水路がある。水の流れはやがて川沿いの家々の目の前を、由岐神社の手前まで流れていく。各家では水路と家の敷地の間に段差を設け、流れている鞍馬川の水を暮らしに使ってきたのである。野菜を洗い、食べ終えた後の食器を洗い、洗濯もした。現在では防火水路の役割が強いようだが、野菜を洗うようなことは今でもあるそうだ。
鞍馬の人びとは、この小さな流れを「おがわ」とも「こがわ」とも称してきた。今でこそコンクート製だが、取水口からの街道に上がるまでの水路は近年まで木製だった。郷土史に詳しい山本博史さんは、古い絵図や文書を探り、この水路はかなり古くからあったと推察する。
「由岐神社が創建されたのは天慶3年(940)のことでした。当時、大地震に見舞われたり、平将門の乱が起こったりと、都は大荒れで、朱雀天皇の命によって都の北の鎮めとして由岐大明神を宮中から鞍馬に遷したのです。そして、由岐神社の例大祭である火祭りを執り行なう前の禊ぎの水を鞍馬川から引くために水路ができた、とも考えられなくもありません。今、たいていは『小川』と書いていますが、もしかすると『御川』だったのかもしれません」(山本さん)
水路の水は、主に鞍馬川沿いの家々が使う。かといって、鞍馬街道の対岸の家々が水の恩恵を受けてこなかったわけではない。家々の裏手はすぐに鞍馬山への続く傾斜地。そこでは随所に山々が含んできた水が湧き上がり、また家の近くでも4mも掘れば井戸が湧き出るという。山側の水を、鞍馬の人びとは川の水に対して「谷水」と呼びならわしてきた。京都市が深井戸を掘って簡易水道施設を作り、そこから家々に給水を始めたのは平成16年(2004)のことだった。それまで、鞍馬の人びとは代々受け継いできた井戸と鞍馬川の水で暮らしてきたのである。

鞍馬川に沿って街道の側を流れる水路。

街道沿いの川側の家々の前には、常に水が流れている。
鞍馬街道による交易が生んだ名物
鞍馬電機鉄道が宝ヶ池駅から分岐させて鞍馬駅まで開通したのは昭和4年(1929)だった。昭和17年(1942)に京福電気鉄道が鞍馬電機鉄道を合併、その後、昭和60年(1985)に叡山電鉄が設立された。鞍馬線は宝ヶ池駅からしばらくは山裾を走っていくが、5つ目の二軒茶屋駅を過ぎると山を上がり始め、やがて勾配は50%に達する。京都市内に残る唯一の山岳鉄道だ。二ノ瀬駅と貴船口駅の間は線路の両側にモミジが生え、「もみじのトンネル」と称されている。秋の紅葉や初夏の新緑のときには、夜にライトアップされ、そこを通過する際、列車は速度を落とし、さらに車内灯を消して楽しませてくれる。鞍馬駅で下車すると鞍馬寺はもう目と鼻の先で、このあたりが鞍馬の集落の中心地だ。鞍馬川を左岸に渡ると、「天狗の小径」と名付けられた細い遊歩道があり、鞍馬川に沿って歩くことができる。秋の紅葉の際には、小径にもやさしい電灯が灯る。

鞍馬駅から街道に出ると、すぐに「天狗の小径」が見つかる。
昨今は日本人だけでなく外国人観光客も多く見受けられるが、人びとが歩く鞍馬街道は、鞍馬と京を結んだだけではなかった。平安時代にはすでに、花脊峠を越え、丹波国、さらに若狭国まで通じていたのだ。京都に行く筋がある日本海沿いの港町との交易路「鯖街道」のひとつであった。その中でも鞍馬街道は、急峻な峠を越えなければならないものの、若狭国との距離はいちばん短く重宝された。鞍馬川の上流部には昔ながらの町屋が並ぶが、そのひとつ、佃煮店『くらま辻井』の主人、辻井浩志さんはこう話す。
「うちが佃煮屋を専業にしたのは親父の代からです。戦後のことですね。戦前は炭問屋でした。叡山電鉄の起点である出町柳に大きな問屋があって、鞍馬の山の木を焼いて作った炭を卸していました。炭俵を大八車に載せて運ぶ際に、木の芽煮も持っていってご挨拶まわりに配ったり、売ったりしてきたのです。副業でした。木の芽煮は、サンショウの実と昆布を醤油で煮炊きした佃煮。鞍馬では古くから家々で作ってきました。牛若丸が集落の人びとから差し出されたものを食べたとのいい伝えも残っています。サンショウは山で獲れました。昆布のほうは、北海道の利尻で獲れたもの使ってきました。北前船で運ばれてきたのが若狭で荷下ろしされ、鞍馬街道を通って鞍馬まで伝わったのです。鞍馬は、出町柳へ出る前の最後の宿場でしたので、海のものと山のものとが出合ったのでしょう」
辻井さんの店があるのは山側だ。川沿いには佃煮の製造所がある。谷水と川の水の両方に恵まれて、今も変わらぬ佃煮が作られ、街道を行き交う人びとの手に渡っていく。広く長い川には舟運が栄えたが、鴨川に注ぐといっても水深が浅く、瀬も多いうえに川石もごろごろと並ぶ鞍馬川に舟運が営まれることはなかった。その代わり、山の川として山間部の暮らしを支えてきたのである。

鞍馬の名物、『くらま辻井』木の芽煮。手土産にも最適。
出町柳からだと、鞍馬までは叡山電鉄鞍馬線で30分ほど。列車は1両か2両。山岳鉄道を走る小さな観光列車だ。下車すると鞍馬街道沿いにベンガラ格子の家々が軒を連ねる門前町であり、宿場町となる。街道に家々が並ぶのは1300mほどだが、山間にできた細長い別世界である。春に木々の芽が吹き、夏に向かって緑の勢いが増す。そして木々の葉は紅や黄色に変わって秋たけなわとなり、葉を落として冬を迎える。かつては毎冬雪に覆われ、山仕事も大八車による荷運びもできなくなった。昨今でも、年に3、4回は雪が積もるという。今年はどうだろうか。雪の鞍馬街道も風情があるに違いない。
※モノクロ写真提供/鞍馬の自然を守る会