京都戦乱のきずな―四人の絆を巡る―

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絆を巡るゆかりの地 絆を巡るゆかりの地

絆を巡るゆかりの地 細川ガラシャ隠棲地の碑_京丹後市弥栄(やさか)町須川 盛林寺(せいりんじ) 山家城址公園(やまかじょうし)_綾部市広瀬町 黒井城跡(くろいじょう)_丹波市春日町黒井 向日神社_向日市向日町北山 八上城跡(やがみじょう)_兵庫県篠山市八上(やかみ)内ほか 「山崎合戦之地」碑_大山崎町大山崎排ノ口(はいのくち)
絆を巡るゆかりの地 細川ガラシャ隠棲地の碑_京丹後市弥栄(やさか)町須川 盛林寺(せいりんじ) 山家城址公園(やまかじょうし)_綾部市広瀬町 黒井城跡(くろいじょう)_丹波市春日町黒井 向日神社_向日市向日町北山 八上城跡(やがみじょう)_兵庫県篠山市八上(やかみ)内ほか 「山崎合戦之地」碑_大山崎町大山崎排ノ口(はいのくち)

細川ガラシャ隠棲地の碑_京丹後市弥栄(やさか)町須川

弥栄(やさか)町野中集落から山道を進んだ味土野(みどの)地区にガラシャの隠棲地がある。ガラシャが2年間幽閉された女城(めじろ)跡地には「細川忠興夫人隠棲地」と刻まれた記念碑が残る。

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盛林寺(せいりんじ)

天正5(1577)年に丹後守護一色氏の重臣小倉播磨守の菩提寺として創建。天正8(1580)年に丹後国守となった細川家とも良好な関係を結び、夭逝(ようせい)した細川幽斎の子菊(きく)童の肖像画、明智光秀の首塚などを有する。

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山家城址公園(やまかじょうし)_綾部市広瀬町

山家城は、本能寺の変後に谷衛友が築城したもの。関ヶ原の戦いで、衛友は細川幽斎の田辺城の包囲に加わったが、歌道の師匠である幽斎に内々に通じていたため、戦後も徳川家康から所領を安堵されたといわれている。現在は、桜や梅などが植栽された公園となっている。

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黒井城跡(くろいじょう)_丹波市春日町黒井

明智光秀と戦った赤井(あかい)悪右衛門(あくえもん)直正(なおまさ)の居城。直正病死後、天正7(1579)年に落城。その後斉藤利三(としみつ)の領土となり、城下にあった下館(しもやかた)(現・興禅寺(こうぜんじ))はその娘、春日局生誕の地として有名。

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向日神社_向日市向日町北山

奈良時代の養老2(718)年創建と伝えられ、本殿は、「三間社流造(さんげんしゃながれづくり)」という建築様式で国の重要文化財に指定されている。細川ガラシャや明智光秀などが活躍した戦国時代にも地域の信仰の中心的存在であった。

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八上城跡(やがみじょう)_兵庫県篠山市八上(やかみ)内ほか

波多野氏が本拠とし、その美しい形から丹波富士と呼ばれる高城山(たかしろやま)に築かれた。八上城(やかみじょう)は難攻不落の戦国山城で、4年に亘る二度の明智光秀の丹波攻めにより天正7(1579)年に落城。平成17(2005)年に国の史跡に指定された。

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「山崎合戦之地」碑_大山崎町大山崎排ノ口(はいのくち)

通称「旗立松(はたたてまつ)」。明智軍と羽柴軍が天王山を取り合った際、羽柴軍は馬印を立てて合戦を有利に展開させたと伝えられる。勝負の分かれ目を指す「天王山」という表現はここからきている。現在は主戦場を眺める展望台がある。

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