紫式部が生まれた平安時代は、多くの「物語」が生み出された時代。
それまでは神話や伝承は声によって語られていたけれど、大陸から漢詩文や伝奇小説など「書かれたもの」がもたらされると、日本のお話も紙に書かれるようになったとか。
文字を持たなかった日本では、やはりお隣の国の漢文で記していたけれど、平安時代に和語の音(おん)を示す「かな文字」が生み出されると、語りの声を文字で拾うことが可能になった。これも物語が量産された理由のひとつ。漢字なんて書くのも読むのも不粋、とされていた女性たちは、自由に想いを伝える最高のツールを手に入れた。
内容もまた、これまでの神々の伝承でなく、大陸の小説などに倣った人間のものがたり、つまりフィクションが求められるようになる。
書く愉しみ、読むよろこび。
『源氏物語』の主人公・光源氏は「蛍」の巻で、物語に熱中する玉鬘(たまかずら)にあきれながらも、次のように語る。
「実在する人の話をそのまま書き起こすということはないけれど、この世に生きる人のありようを、見ているだけでは足りない、聞き流すこともできない、後の世にも語り継ぎたい、と思って書かれたのが物語の始まりだろうね」
これは作者・紫式部自身の、物語への想いだった。
『源氏物語』で「物語の出で来はじめの祖(おや)」と言われるのが『竹取物語』。これは昔話の「かぐや姫」のルーツとなったもので、昔話では竹の中に小さな女の子を見つけた竹取の翁がみるみるお金持ちになり、やがてかぐや姫は月へ帰るというSFファンタジーであるのに対し、原典の『竹取物語』はもっと人間くさい。
かぐや姫に求婚する五人の貴公子たちは彼女を手に入れるためにウソや策略を厭わないし、お金に汚い。竹取の翁も、帝から「かぐや姫を宮中に献上したら五位の官位を与えるぞ」と言われたとたんにかぐや姫を説得しようとする。荒唐無稽のように見えて、「物語」では私たちに身近な「人間」が動き回っている。だから千年前の人々は夢中になった。
『竹取物語』の発祥地とされる場所の一つに、長岡京市、向日市、大山崎町からなる「竹の里・乙訓(おとくに)」の地域がある。平安京が建都される前の10年ほど「長岡京」が置かれ、当時から竹林が広がっていたことから、ここにかぐやの物語が幻視されてきた。向日市に近年整備された「竹の径」という散策ルートは外の世界から隔離されたような竹林道で、かぐや姫の十二単の襟元をイメージした「かぐや垣」なども巡らされる。夕刻の斜陽が竹林にさすと、まさに翁が見つけた光る竹がどこかにキラリと輝き出しそう。ギイギイと竹の群れが風に揺れ、無数の葉がざわざわと騒ぎだせば、ことの葉が満ちて物語が生まれた時代に、心が遠くとんでゆく。
紫式部とほぼ同時代の『三宝絵詞』によると、このころの物語は「森の草よりも、砂浜の砂よりも多い」と書かれている。量産された物語は、読者の批評や時代の波にさらされ、消えた。そのため残された物語は古典と呼ぶにふさわしい、読み継がれた名品といえる。
まして、世界にまで広がった『源氏物語』。
この物語より前では、作者名が伝わるものはない。それは物語が女性や子どもの娯楽で、公的な文学ではなかったためかもしれない。しかし『源氏物語』は男性貴族にも読まれた。『紫式部日記』によると、一条天皇は「源氏の物語」を人に読ませて、
「作者はきっと日本の史書を読んでいるね。学識がすごいもの」
と語ったという。
今でいえば、ミリオンセラーの超話題作。『源氏物語』は従来の物語から高く飛躍する。
紫式部は本名も生没年も知られていない。
漢学者の藤原為時(ふじわらのためとき)の娘に生まれ、その漢才は父親ゆずりであったらしく、兄弟の惟規が父から漢籍を学んでいるのを脇で聞いて、彼よりも早く理解したという。しかし為時がそれを喜ばなかったのは、女性は漢字については一字も知らないふりをするのがマナーであったから。その後も紫式部が漢籍をちらりとでも見ると、侍女たちに、
「ご主人さまはそんなふうだから幸せが薄いのよ」
と陰口までたたかれたという。
こんなやりとりがあったとおぼしき紫式部の邸宅跡と言われるのが京都の廬山寺のあたり。ここには曾祖父・藤原兼輔(ふじわらのかねすけ)の邸があり、紀貫之ら『古今和歌集』歌人が集まる文芸サロンだった。おそらく紫式部も父・為時とともにこの邸宅に過ごしたと考えられ、中流階級の自由な気風と文芸の香り高い環境で、漢才を身に付けていった。
紫式部が結婚したのはおそらく20代半ばで、夫は藤原宣孝。正妻も子どももいる年の離れた男だったが、二人には娘が生まれる。ところが結婚からわずか2年ほどで宣孝は世を去った。
幼子をかかえて孤独をかみしめる紫式部の心を慰めたのは「物語」。『紫式部日記』によると、物語仲間と手紙を交わして批評し合ったという。それは流布していた物語かもしれないし、みずから創作した物語でもあったかもしれない。
『源氏物語』がいつ書かれたのかは不明だが、おそらく夫を失った後にこんなふうに書き始めていた『源氏物語』が時の権力者・藤原道長の目に留まり、その才を見込まれて娘の中宮彰子サロンにスカウトされる。紫式部は宮仕えをしながら物語を書きつづけたらしく、『紫式部日記』には物語を女房たちが手分けをして清書し、製本するシーンも描かれるが、これがまさにできたてホヤホヤの『源氏物語』だったようだ。
でも、紫式部は単なる「中宮お抱え物語作家」というわけではなかったらしい。
彼女が残した『紫式部日記』が道長の邸宅・土御門第での彰子の出産場面から始まり、敦成親王の誕生の盛儀をあますところなく描いているため、いわば道長家の栄華を後世に残す書記官の役割も果たしたと考えられている。さらに人目を忍びつつも彰子に漢籍をレクチャーしていることから、家庭教師役でもあったようだ。
知性と、筆の力──それがシングルマザー・紫式部を羽ばたかせた翼。家の人たちが眉をひそめたはずの漢才が、彼女のキャリアを豊かにしていった。
なぜ藤原道長は紫式部をスカウトしたのか。
一条天皇にまだ12歳だった娘の彰子を入内させるとき、道長はライバルの定子に負けまいとずいぶん心を砕いた。女房はすべて良家のお嬢さまで揃え、調度品はすべて最高級、そして文学好きな一条天皇のために貴重な書物を用意する。
「あまりにもおもしろくて、政治も忘れたおバカになってしまうよ」
と一条天皇は興奮したという。書物だけでは足りない。定子に清少納言というインテリ担当がいたように、彰子にも誰か……
摂関政治では後宮が政治の場。自分の娘が天皇に愛され、次期天皇となる子を産むことが、政治の勝利。それでも道長は彰子をたんなる政治的道具とはとらえず、一条天皇と政治的理想を共有できるような、中宮にふさわしい英知を授けたかったのかもしれない。そこで白羽の矢が立ったのが、物語作家として注目されていた紫式部だったのだろう。
彰子サロンを彩ったのは他にも、伊勢大輔や赤染衛門、そして和泉式部など。みな優れた歌人として知られていた。
和歌もまた、「かな文字」がもたらした平安時代を代表する文芸。『古今和歌集』を初めとする勅撰集(天皇が編纂を命じたもの)が次々と編まれ、季節のあいさつも恋の駆け引きも多くは和歌によって行われ、歌の魅力はその人の魅力だった。
そういう意味で、天性の歌人であった和泉式部は恋多き人として当時から知られ、道長も「浮かれ女(め)」とからかっている。紫式部は彼女について、
「和泉式部とはすてきな手紙を交わす仲。ただ、恋愛方面では感心しないことも。気軽なやりとりにも才能を感じるし、使うことばには色気があって、歌がとてもいい。理論的に考えるのは得意ではなく、口からすらすら出てきたような歌にこそ、キラリと光るものが必ずあるのです」(『紫式部日記』意訳)
と評している。
黒髪のみだれもしらずうちふせばまづかきやりし人ぞ恋しき(『後拾遺和歌集』)
──あまりの想いに黒髪が乱れるのも気にかけず床に臥すと、ここでこの髪をかきあげてくれたあの人のことがいっそう恋しくなる……
平安京の夜の濃密な闇を切り取ったような、生々しい恋のうた。なにかが乗り移ったようにすらすらと詠まれる情熱的な歌に、当時の人も異質なものを感じたようで、和泉式部にはさまざまな伝説が生まれた。
和泉式部は橘道貞と結婚して娘をもうけるものの、冷泉天皇の子・為尊親王と敦道親王という兄弟と続けざまに恋に落ち、二人が相次いで亡くなった後、彰子に出仕する。やがて道長の家司であった藤原保昌と再婚して、丹後守となった夫に従って丹後に下ったという。
そのころ、同じく彰子に仕えていた和泉式部の娘・小式部内侍が都での歌合に呼ばれ、藤原定頼から次のようにからかわれた。
「丹後の母上にもう使者は送ったの? まだだったら、さぞ心細いでしょうね」
歌の名手である母親に助けてもらうのでは、と勘ぐられたのである。そこで内侍はその場で歌を詠んだ。
おほえ山いく野の道のとほければまだふみもみず天の橋立(『金葉和歌集』)
──大江山を過ぎて行く生野(いくの)の道は遠いので、まだ天橋立に踏み入れてもいませんし、母のふみ(手紙)すら見ていません。
この歌のみごとさに、「母親ヘルプ疑惑」はかき消えた。
和泉式部が丹後に滞在した、という史実に丹後地方の人々は少なからず誇りを持ち、いくつもの伝承が生まれている。天橋立の中程にある磯清水を詠んだ歌もその一つで、海に囲まれながらも清水をたたえる磯清水の井戸を和泉式部は次のように詠んだと伝えられている。
橋立の松の下なる磯清水 都なりせば君も汲ままし
──天橋立の松の下からこんこんと涌く磯清水。もし都にあったなら、あなたも汲んだことでしょう。
いまも松風と潮騒がさわぐ椿の木のもとに井戸が伝わり、漆黒の髪の王朝女性を想像するにふさわしい静けさをたたえている。
天橋立から車で20分ほど山の中に入り込んでいくと「山中の里」と呼ばれる集落がある。そこに和泉式部の墓と伝わるかわいらしい五輪塔の一群。伝承によると、夫の保昌が帰京したのちも和泉式部はここに留まり、生涯を終えたという。
他の女性文学者たちと同じく、その最期は史実としては伝わらない。しかし丹後の人々は天才歌人がこの地の風光を愛でて骨を埋めたと信じ、喜び、語り継いでいる。
阪急「洛西口駅」下車徒歩約15分
京都丹後鉄道「天橋立駅」下車徒歩約5分
京都駅より市バス「府立医大病院前」下車徒歩約5分
京都丹後鉄道「天橋立駅」下車徒歩約15分
京都駅より地下鉄「丸太町駅」下車徒歩約15分
宮津天橋立ICから車で約15分