第3回
「鎮魂と救済 ── 新しい時代へ向かうために」

⼤河ドラマ「鎌倉殿の13⼈」に描かれる時代を京都に探し、
激動期の⼈間模様と史跡をご紹介します。

3 「鎮魂と救済新しい時代へ向かうために」

光明寺
光明寺

われたい、救われたい

寿永4年(1185)、平家一門は壇ノ浦の波の底に沈んだ。
長く続いた内乱で、あまりにも多くの命が失われていた。
このころ都の人々の篤い信仰を集めていたのが、「専修念仏(せんじゅねんぶつ)」を説いた法然上人。阿弥陀仏の救済を信じ、「南無阿弥陀仏」と唱えさえすれば極楽往生が叶う、という教えに、人々はすがりついた。
血なまぐさい戦いを繰り広げた武将たちも、法然に心の救済を求める。

一ノ谷の合戦で源氏方として勝利した熊谷直実(くまがいなおざね)は苦悩の中にあった。
もう勝敗が決まっていたのに、より強い武功を欲した直実は、助け船に向かう平家の若武者を波打ち際でとらえる。よく見れば薄化粧にお歯黒をほどこし、容顔あまりにも美麗、年の頃は16歳ほど。我が子の小次郎と同じぐらいか、と思ったとたん、刀を持つ直実の手が止まる。若武者は言った。
「お前なんぞに名乗るつもりはないが、お前にとってはいい敵だ。この首を取って人に見せてみろ。知らぬ者はいない」
この美しさ、この度量。殺すにはあまりに惜しい。
しかし背後からは源氏の兵が押し寄せ、この若武者の宿命はもう定まっていた。であるなら、私が。
若武者に急かされ、直実は泣く泣くその首を取った。若武者の名は、平敦盛(たいらのあつもり)。直実はほとほと武士の身に生まれたことを恨み、出家への想いがつのった、と『平家物語』は語る。あまりにも有名な「敦盛最期(あつもりのさいご)」。
直実が実際に出家したのはここから8年後、その理由は敦盛の死ではなく所領争いに関連すると言われるものの、法然との出会いによって人生を変えられた。

光明寺
光明寺 参道

約30年という長い時間を比叡山黒谷に過ごしていた法然は、『無量寿経(むりょうじゅきょう)』にある阿弥陀仏の誓い──私の名を唱えた人はすべて往生させる、という言葉に光明を得ていた。
南無阿弥陀仏と唱えるだけで、貧しい人も、当時は救われがたいと言われた女性も、罪人も、殺生をした人でさえも救われる、という法然の言葉は、殺戮を日常とした武士たちの心に響いた。
直実も東山吉水の法然の庵を訪ね、その教えに感銘を受けて法力房蓮生(ほうりきぼうれんせい)と名乗って弟子になったという。東国での布教にも尽力し、鎌倉の御家人にも専修念仏者が増えていった。
やがて蓮生は心静かに念仏三昧の日々を送りたいと望み、法然にゆかりのある西山の粟生(あお)の地に「念仏三昧院」を建立する。紅葉の参道で知られる現在の光明寺である。山ふところに抱かれた境内は今なお静謐に包まれ、樹間を抜ける風の音とともにお念仏の声が聞こえることもある。この地で、直実の血に染められた記憶は少しずつ浄化されていった。

安福寺
安福寺 平重衡の供養塔

もう一人、法然の言葉に魂を救われた武将がいる。
治承4年(1180)に南都焼き討ちを行い、東大寺や興福寺という大寺院を焦土にした平重衡(たいらのしげひら)。一ノ谷の合戦で生け捕られると、都にて引き回しの上、八条堀川の御堂に軟禁されていた。明日をも知れぬ命となった重衡は、「黒谷の法然房」にどうしても会いたいと訴える。許されて、法然が御堂に訪ねてきた。
「命ぜられるままに、悪行を行いました。私のような悪人でも救われる方法をお示しください」
重衡の悲壮な訴えに、法然も涙を落とす。
「心に念仏し、口に仏名を唱えることを忘れなければ、この苦界を出て浄土に往生することに、なんの疑いもありません」
やがて重衡の身柄は南都の衆に引き渡された。大仏まで焼かれ、怒り狂う南都の衆は、
「首はのこぎりで切ってやろうか、地中に埋めてから切ってやろうか」
と猛るものの、老僧の意見により、木津川のほとりで武士によって斬られることになる。
数千人の見物人が見守る中、斬られるその直前、重衡に長年仕える木工右馬允知時(もくうまのじょうともとき)がはせ参じた。死ぬ前に仏を拝みたいという重衡の願いに応え、近くのお堂から阿弥陀仏を運び、重衡の前に据える。そして着ていた狩衣の紐を抜いて仏の手に掛け、その端を重衡に取らせた。
重衡は大声で念仏を唱えること十回。すっと伸ばした首は、落とされた。彼は念仏という安心に抱かれていた。
重衡を引導した阿弥陀仏があったお堂はいつしか地域の人々によって「哀堂(あわんどう)」と称され、現在、安福寺がその法灯を保っている。境内には重衡の供養塔である十三重石塔があり、裏手の木津川の堤防には重衡の首を洗ったという「首洗い池」が今に伝わっている。

六波羅蜜寺
六波羅蜜寺

倉殿の入京

平家を滅ぼし、源義経も倒し、奥州合戦にて奥州藤原氏を討伐した頼朝は、自分に対抗しうる武装勢力をほぼすべてねじ伏せたことを確信し、建久元年(1190)11月、ついに京へと上る。
約30年前、流人として後にした都だったが、今は内乱に勝ち抜いた武家のトップとして再び目にするのだった。
警護する軍勢は約千騎とも言われ、朝廷を威圧するに十分な数。物見好きのみやこびとは頼朝の入洛行列を見ようと賀茂川に押しかけたという。あの後白河法皇もお忍びで見物した。慈円(じえん)は『愚管抄(ぐかんしょう)』にこのときの頼朝について、「ヌケタル器量ノ人ナリ」──とんでもないイケメン、と記している。
頼朝が京の宿所としたのは、鴨川の東にある六波羅(ろくはら)。かつて平家一門の館が建ち並んだ一帯で、都落ちの際に焼き払われ、壇ノ浦の戦いののちは頼朝の手の内にあった。頼朝はここに広大な新邸を築き、都での活動における拠点にする。
滅びし平家の夢の跡に、新たな権力の拠点を作ったのは頼朝のデモンストレーションだろう。承久の乱後にはここに鎌倉幕府の出先機関として「六波羅探題」が置かれることになる。往時の歴史を今に伝えるのは六波羅蜜寺。武将たちが明滅したこの地に、今は祈りだけが残されている。

男山
男山

都では、頼朝と後白河法皇の会見が8回も行われた。まだ11歳の後鳥羽天皇にも丁重に拝謁したが、頼朝いわく「日本国第一の大天狗」との密談が彼の今後の地位を定めることは十分わかっていた。
密談の内容はあきらかではないが、頼朝は在京中に権大納言、右近衛大将に任官される。ところが都に常駐しなければならない官職は頼朝にとって無用の長物、鎌倉への帰還が近づくと、すべて辞退している。彼にとって官職より、全国の軍事・警察権を手中に収めることの方が重要だった。
政治的な駆け引きを続ける一方で、頼朝は時間を見つけては都の寺社へ参詣をしている。記録には清水寺などが見られるが、なかでも石清水八幡宮への参詣は、2度目の入洛を含めると計5回も行われている。
石清水八幡宮はその名前のとおり、古くから霊泉のわく聖地として知られ、平安時代に現在の大分県にある宇佐八幡宮の神を男山山頂に勧請したことからその歴史が始まる。
桂川、宇治川、木津川。この三川が合流するところに、瑞々しい緑をたたえた男山が美しい山容でたたずむ。わずか標高123メートルの山上に社殿が建ち、現在はケーブルカーによる参拝も増えたものの、かつてはいくつかあった急勾配の参道を人々は息せき切って登り、目の前に広がる荘厳の境内にため息をついていた。

石清水八幡宮 楼門
石清水八幡宮 楼門

石清水八幡宮は創建されてから国家鎮護の神として朝廷の崇敬を受ける一方で、社殿を創建した清和天皇が清和源氏の祖であったことから、源氏の守護神としても篤く敬われるようになった。
なかでも源氏の棟梁としての自負を持つ頼朝にとって、八幡神への信仰は心のよりどころだったのだろう。鎌倉に幕府を開いた際も、祖先の源頼義が石清水八幡宮の分霊を由比ヶ浜に祀っていたものを鎌倉に移し、源氏守護の神として鶴岡八幡宮を創建している。
信仰のふるさとである石清水八幡宮を訪れることは、頼朝の入洛の目的の一つであったかもしれない。上洛の先陣を任されていた北条義時も、白い絹で誂えた狩衣を浄衣としてまとい、頼朝に供奉している。
夜を通して籠もり、勤行に没頭したという頼朝。その切実な祈りは、自分のためであり、これからの国家安泰のためであり、もしかしたら失われた多くの命に対してであったのかもしれない。
頼朝以降、足利将軍家や織田信長など、時の権力者たちがここで篤い祈りをささげている。

石清水八幡宮、夜の参道
石清水八幡宮、夜の参道

将軍と流され僧

建久3年(1192)、後白河法皇が亡くなった。
すると同時に、頼朝はほんとうに欲しかったものを手に入れる。
大将軍。これであれば、都に常駐しなくてもいい上に、いかにも武将らしい。
頼朝の申し出を受けたとき朝廷は、さて、どんな大将軍がよかろうと頭をひねる。
平宗盛の「惣官(そうかん)大将軍」か、源義仲の「征東大将軍」か。「上将軍」もあるけれど、これは中国の官職。古い例では、坂上田村麻呂の「征夷大将軍」。これが無難か。
という、ふわりとした成り行きで、彼は征夷大将軍になった。この名が今後、幕府の首長名として定着していくことになる。
もう一つ、頼朝はどうしてもやらねばならないことがあった。
国家安寧の象徴である東大寺が焼け落ちていた。その再興は、為政者にとって新しい時代を牽引するために必要不可欠のものだった。
後白河法皇がすでに東大寺の大仏開眼まで推し進めており、その亡き後、頼朝こそが新しい施主として大仏殿以下の再建に寄与することになる。そして建久6年(1195)、ついに大仏殿の落慶法要(らっけいほうよう)を迎え、そのために頼朝は二度目の上洛を果たす。
このときもまずは六波羅邸に入り、頼朝見たさであふれかえる見物の牛車を押し分けて石清水八幡宮の臨時祭へと向かう。正室政子と、嫡男の頼家とともに宝前で夜を明かし、そのまま南都へ向かった。
『愚管抄』によると、落慶法要の日は激しい雨が降っていたものの、北条義時ら鎌倉の武者たちは雨に濡れることを意に介せず、居住まいを正して頼朝を守護していたという。みやこびとたちは驚いた。

文覚寺
文覚寺

内乱で焼き尽くされた寺社は、次々と再興されていった。
東大寺の再建には俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん)が携わったことがよく知られるが、文覚(もんがく)もまた寺院再興に尽くした一人である。
のちに伝説化され、破天荒な怪僧のイメージが強いが、その虚飾を振り払っていくと、真言宗を開いた空海への強い敬慕に突き動かされて、ひたすら寺院の再興に心血を注いだ一人の僧が浮かび上がってくる。
文覚の寺院復興活動を援助したのもやはり頼朝。二人の出会いは鎌倉だった。
文覚は空海ゆかりの京都の神護寺をなんとか再興したいと思っていた。後白河法皇の支援を得ようとするものの、そのやり方はあまりに強引。院御所にずかずかと入っていき勧進帳を大声で読み上げ、とがめられると暴力沙汰。ぶっそうなことまで口走るので、ついには鎌倉に流されてしまう。そこに、同じく流され者だった頼朝がいた。
「今の源氏平氏のなかで、あなたほど将軍にふさわしい人相を持っている人はいない。はやくはやく謀叛を起こして、日本国を征服しちゃえ」
と文覚は頼朝に語ったと『平家物語』は伝える。当時から頼朝の挙兵を促したのは文覚、という噂はすでにあったが『愚管抄』は「ヒガ事」(ウソ)として断じている。文覚をめぐっては多くのヒガ事があったとしても、何かしら頼朝に影響を与えたようだ。
頼朝だけでなく、あれほど文覚を嫌っていた後白河法皇もやがて支援の手をさしのべ、念願の神護寺をはじめ、東寺、西寺、高野山大塔、四天王寺などを次々と修理していった。多くの血を流してきた為政者たちの鎮魂への想いと、文覚の強い意志、この二つがぴたりと符合した成果だろう。

文覚池
文覚池

飛ぶ鳥も祈祷で落とすと言われた文覚だが、出家前についてはよくわかっていない。名前は遠藤盛遠(えんどうもりとお)という武士であり、延慶(えんぎょう)本『平家物語』によると、人妻の袈裟御前(けさごぜん)に恋をして、その夫を殺そうとしたところ誤って袈裟御前を殺害してしまい、それを悔いて出家したと語られるが、語り物の域を出ていない。
唯一、幼少期の文覚についての伝承が亀岡市保津町に残される。母を失った文覚がこの地の者に預けられ、13歳の元服を待って宮中警護のお役につき、保津を出て行ったという。いま保津町にある「文覚寺」は、残された文覚の念持仏を祀ったことに始まるという。
「やんちゃにこの辺を駆け回っていたんでしょうな」
と、ご住職がまるで近所の子供を思い出すように語る姿を見ると、史料にはなくても、長くこの地域で「文覚さん」が語り継がれてきたことがわかる。
ここから車で20分ほど、南丹市の山裾に「文覚池」がある。寺領の見回りにきた文覚が夏の水不足に苦しんでいた農民たちのために、陣頭指揮をとって造り上げたため池だという。
そういえば、文覚が敬愛する空海もふるさとの香川県多度(たど)郡に満濃池という巨大な農業用のため池の改修を指揮したことはよく知られている。
「どれ、わしもやるか」
と、ふるさとのために腰をあげる文覚の姿が、のどかな水景の中で想像されるのである。

MAPアクセス情報

光明寺
JR長岡京駅より阪急バス「旭が丘ホーム前」下車徒歩約2分
安福寺・平重衡首洗池
JR奈良線「木津駅」下車徒歩約10分
六波羅蜜寺
京都駅より市バス「清水道」下車徒歩約7分
京阪電車「清水五条駅」下車徒歩約7分
石清水八幡宮
京阪電車「石清水八幡宮駅」より参道ケーブル「ケーブル八幡宮山上駅」下車徒歩約5分
文覚寺
JR山陰本線(嵯峨野線)「亀岡駅」下車徒歩約25分
文覚池
JR山陰本線(嵯峨野線)「吉富駅」からタクシーで約5分
光明寺