投稿日: 2025年07月16日(水)

京の川巡り 第1回 鮎と川(前編)

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夏の訪れを告げる美麗な魚
鮎は日本の川と深く結びついた淡水魚である。中国沿岸部、朝鮮半島にも棲み、ベトナム南部でも確認されている。だが、生息数は日本列島に多い。これは、大きな石や瀬と淵が近接して連続する日本の川が、鮎の生育に適しているためだ。生態は他にはない特徴をいくつも持つ。命はわずかに1年。そのため「年魚」(ねんぎょ)といわれる。
夏の盆過ぎから秋にかけ、川の中流から下流で産卵し、孵化した稚魚はいったん海に出るが、鮭ほど遠くにはいかない。沿岸からせいぜい数kmの範囲内で暮らす。やがて初夏になると川を遡上する。濃緑色の背に銀白色の腹、口元から下顎にかけて黄色みがかり、体全体が艶やか。まさに容姿端麗。日本の川に夏を告げる美しい魚である。

清流が育てる美味は皇室にも献上された
川を遡上し始めるときには数cmでしかないが、夏の間に2倍から3倍ほどの大きさに成長する。この驚くべき成長力を支えるのは川の豊かさだ。鮎が喰むのは川底の石につく藻類、いわゆる水苔である。これは水が透き通り、川底まで太陽光が届く清流ほどよく育つ。鮎は水苔の香りを放ち、日本人は古くからこの香りを珍重し、「香魚」(こうぎょ)とも呼んできた。縄文時代から食してきたという。
「此の国、山河襟帯、自然に城を作す」という桓武天皇による平安遷都の詔(みことのり)が物語るように、京都は東、北、西にぐるりと襟のように山々がそびえ、そこを源にいく筋もの川が帯のように流れる。山間の地では都が築かれる前から、梁漁(やなりょう)、筌漁(うけりょう)、鵜飼漁(うかいりょう)などを営む人々がいた。平安遷都の後には、こうした鮎漁師の集団の中から、集落を越えて漁を行なうことを許されるなど、皇室から特権を与えられる人々も出現するのである。

丹波山地から都へ「鮎の道」を通って運ばれた
現在の京都府北部の南丹市は丹波山地の只中にある。同地の佐々里峠(ささりとうげ)を源にするのが大堰川(おおいがわ)だ。まず西に流れ、京都市右京区の京北に入ると上桂川と名を変えて南に流れだし、桂川となって嵐山、桂を通り、鴨川と合流して淀川に流れ込む。大阪湾にまで続く川だといっていい。この川は江戸時代に鮎の一大供給河川となった。南丹市の大堰川沿いに世木(せき)という地があり、江戸時代を通じて「世木の鮎」として名を馳せたのである。
嵐山に集積場あり、世木の鮎は現在の南丹市日吉町天若(あまわか)に集められて嵐山に向かった。道のりは約26kmだ。ほぼ今の府道50号線に当たる道は、まさに「鮎の道」であった。
鮎は環境の変化に敏感な魚である。水温の急激な変化や水流がないと、すぐに弱ってしまう。鮎の運び手は「アユモチ」といわれ、男衆の夏の副業だった。「アユモチオケ」という杉板を薄く仕立てて組んだ独特の桶を天秤棒で担ぎ、ちゃぷちゃぷ水を巧みに揺らし、また街道沿いの水場で水を変えながら鮎を死なせずに運んだ。天若から嵐山まで7時間ほどで歩ききったというから健脚ぞろい。後には鮎の集積場が三条にもでき、そこまで足を延ばす者も現れた。鴨川に鮎の鮮度を保つための生簀(いけす)を作って鮎料理を名物にする料亭ができたのである。アユモチは昭和初期まで活躍したという。
 
急行郵便車輸送の光景
急行郵便車輸送の光景。南丹市立文化博物館『街道』より。
 
アユモチオケ
アユモチオケ。大正7年(1918)。南丹市立文化博物館『街道』より。

近年は釣りを中心にして流通
鮎は明治以降、次第に釣りが盛んになり、逆に他の漁法は廃れていった。とりわけ昭和も戦後になると、釣りが漁法の中心になっていった。なわばりを持つ習性がある鮎は友釣りで釣られる場合が多い。生きた鮎を弱らせず巧みに針を仕掛け、この「オトリ」を長い竿から延ばした長い糸の先につけ、水苔を喰む鮎に近づける。すると侵入者を排除しようと体当たりする。そのときに針に引っかかるわけである。今でも友釣りを生業にする人がいるというが、大半は趣味、漁業の分類では「遊魚」に属する釣り師たちだ。じつは、現在の鮎は遊魚を中心にして流通している。オトリを扱う店が仲買人の役割を果たし、釣り師が持ち込んだ鮎を買い取って料理店や料亭に卸す場合が多い。こうした独特の流通をする点でも鮎は珍しい魚である。
南丹市の山奥を源にする川に、由良川がある。大堰川とは分水嶺を分ち、由良川も西に流れるが、綾部市で北に大きく屈曲して福知山市を通り、舞鶴市と宮津市の市境で日本海に注ぐ。こちらも古くから良質の鮎が育つ川として知られてきた。美山漁業協同組合は由良川の最上流部にある漁協だ。小中昭さんは南丹市美山町で生まれ育ち、美山漁協の10代目の組合長を務めている。
「父も祖父も友釣りをしてました。昔は竹の継竿やった。大事にしてて、子どもには触らしてもくれへんかった。釣れた鮎は家で食べました。塩焼きはもちろん、鮎の炊き込みご飯もあったな。美山町には今でも茅葺きの民家が残っていますが、かつては我が家も茅葺きやったんです。囲炉裏があって天井から自在がかけてあり、そこに束ねた藁を据えつけて、鮎を串でそれに刺しておくわけです。すると自然に燻製になる。よう食べました」
 
美山漁業協同組合・代表理事組合長 小中昭さん
美山漁業協同組合・代表理事組合長の小中昭さん。
 
今年(令和7年)の解禁日の美山川での光景
今年(令和7年)の解禁日の美山川での光景。

いい鮎が育つ本流の美しさは水源の森の健康が大切
川は一本が山の水源から海の河口まで延びるわけではない。いく筋もの支流を集めて本流を作って流れ進んでいく。上流部でも沢のような狭い流れとなれば鮎が棲むことはない。あくまで本流の魚である。漁協では支流から本流まで、稚魚を放流している。放流魚は琵琶湖の鮎を使うところが全国的に多い。本来、鮎の稚魚は海で育つが、琵琶湖を海がわりにして生きる鮎がいる。淡水だけで育つのは琵琶湖だけである。ただ、放流すれば川によって育ち方が異なる。やはり、いい鮎はいい川がなければ生まれないのだ。由良川は今でも良質の鮎が育つ。その理由を小中さんはこう話す。
「いい川であるためには、いい森があること。森の土壌がしっかりして保水力があり、降った雨を留め、土の中にある栄養とともに少しずつ滴らせ、それがやがて川になり、栄養が水苔を育てます。森が荒れて土砂が流れたりしたら、川は濁り水苔が育たんようになります。また、土砂が積もれば川底が上がって水量が減り、これも鮎によくない。餌が豊富にあって、しっかり運動できる水量と水流があると鮎は立派に育ちます。ですから、鮎は川だけでなく森の京都の恵みでもある。そのため、私たち漁協の組合員は、林業家や森林保全の活動家たちと連携して森の保全にも力を尽くしています。
昨今は森の荒廃を防ぐこととともに、釣り師が減っていることも悩みの種です。何より鮎は釣りがあって流通する魚です。しかし、友釣りはなかなか難しい釣りでね。そこで、漁協では友釣り教室を開催したり、ルアー・フィッシングを許可して普及させる事業も行なっています。京都の鮎の文化がこれからもしっかり残っていくようにしていくのが、私たちの使命です」


主な参考文献:鈴木康久・肉戸裕行『京都の山と川』(中公新書)、秋道智彌『アユと日本人』(丸善ライブラリー)

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