京の川巡り 第2回 鮎と川(後編)

塩焼きという簡素な調理法に隠された奥義
鮎の生息地は、北限は北海道で日本海側が天塩川(てしおがわ)、太平洋側が湧別川(ゆうべつがわ)となり、南限は沖縄本島だ。なれ鮨、甘露煮といった土地独特の保存食があるが、全国津々浦々に浸透している調理法といえば、なんといっても塩焼きである。背鰭(せびれ)、腹鰭、そして尾に塩を打って串に刺して焼き上げる。簡素だといっていい調理法だが、簡素だからこそ奥義がある。南丹市美山町のある料理店のご主人はこう話す。
「京都市内の料亭では、昔から『鮎は3口で食せるように』といわれてきたようです。頭から頬張り、次、その次と3口で食べ終えられるとなれば、大きさはせいぜい15cmまでではないでしょうか。串打ちも工夫して、焼き上がりがあたかも川の中を泳いでいるかのような波打つ姿にします。艶も大事。決して焼きすぎず、かすかに背の濃い緑と腹の銀白色が残る程度に焼き上げますから、相当に経験を積んでいかないと上手にできないんです」
塩焼きにする前に串を打った鮎。京都市内の飲食店の例。
美山漁協共同組合では、毎年8月下旬になると6月から始まった釣りシーズンが終わり、由良川に網を打ってその年最後の鮎漁を行なう。その頃になると、水量が多く水流も激しいところで育った鮎は、栄養分が高く25cmを超えるほどにまで成長していることがある。組合長の小中昭さんはいう。
「由良川の源流は京都大学の芦生(あしう)研究林です。そこから急流が落ちてきて、10mほどの本流を作り始めるあたりが放流の最上流部になります。このあたりの鮎は大きくなる。また“ぬめりが違う”と讃える釣り師もいます。体のぬめりは鮎の逞しさの証しなのです」
美山の料理店の中には、夏の終わりに、こうした大きく逞しい鮎の塩焼きを好んで出す店もある。京都市内の料理店ではなかなか味わえない、産地こその鮎である。
美山川で釣れた鮎は、一般的には生簀で1~2日ほど落ち着かせる。
北大路魯山人がもっとも愛した由良川の鮎
篆刻、絵画、書、漆芸に通じ、中年以降は陶芸と料理に強烈な個性を発揮した北大路魯山人(1883〜1959)は、京都市の生まれである。生家は上賀茂神社の社家であった。幼少期から世木(せき)の鮎を運ぶアユモチ、鮎を入れた桶を頭に乗せて市中を売り歩く桂女(かつらめ)に接していたようで、良質な京都の鮎が身近であった。そのためか、東京の鮎料理を厳しく批評した。魯山人は、大正末に東京・永田町の会員制高級料亭「星岡茶寮」(ほしがおかさりょう)の顧問に就任し、神奈川県鎌倉市に魯山人窯芸研究所として「星岡窯」を築いて関東を拠点とし始めた。そして『星岡』という雑誌を発行し、自身の鮎への美学も開陳していった。そこには、まずこうある。
「東京でも盛んに鮎を賞味するので、河岸には日本全国からイヤというほど送られて来るが、東京で鮎をうまく食おうとするのは土台無理な話で、かれこれ言うのはおかしい。鮎の味は渓流激瀬で育った逸品を、なるべく早目に食うのでなければ問題にならない」
続いて自身が最高とする鮎は、どこで獲れるのかを述べる。
「鮎がいいのは丹波の和知川が一番で、これは嵐山の保津川の上流、亀岡の分水嶺を北の方へ落ちて行く瀬の急激な流れで、姿もよく、身もしまり、香りもよい。今のところここ以上のを食ったことがない」
和知川とは、由良川の一部分である。この川が京丹波町和知に達すると、かつてはそう呼ばれたのだ。雑誌『星岡』の69号(昭和11年発行)には、魯山人が現地視察を行なった様子が記事になった。訪れたのは現在の南丹市美山町大野地区で、ここで自ら鮎を選別してトラックと汽車を使って東京へ送った。汽車にはアユモチを樽に寄り添わせて同乗させ、鮎が弱らないよう、樽の中の水を揺らさないための手を尽くした。この鮎の大移動は、自身が顧問を務めた「星岡茶寮」で自身が最高と思って譲らない和知川の鮎を出すためであった。
アユ釣り名人の藤井勇太郎老人と魯山人ら。南丹市立文化博物館『街道』より。
味の決め手となるハラワタは塩辛にもされてきた
美食、そこに貫かれた美学によって鮎の大移動を展開した魯山人は、鮎の味の決め手はハラワタ(内臓)だとして次のようにも書いた。
「和知川ものを活かして京阪に運び、その日のうちに食えばうまいが、二、三日経っては脂が抜けてしまう。生きていても、焼いてみるとハラワタなしで、トンネル風に空洞を作っている。ハラワタというのは、ほとんど脂でできていると見え、三日も生簀に置いておれば、ほとんど脂は抜けてしまう。最も賞味すべきハラワタが抜けてしまっていては価値がない」
今では鮎の内蔵には脂分だけでなくビタミン類も豊富だと知られているが、「香魚」と呼ばれる鮎の持つ川苔の香りの源はハラワタである。どこまでも“鮎らしさ”を味に求めてハラワタに行き着いたのは稀代の美食家の面目躍如である。ただ、独特の苦味のもとでもあるハラワタに、多くの人が魯山人のような美学を持っていたわけではない。それを物語るのが蓼(たで)である。「鮎蓼」とも呼ばれ、鮎と相性がよいとされてきた調味料となる植物だ。ほのかな辛味があり、ハラワタの苦味を蓼の辛味で緩和するわけである。塩焼きには、すり潰した蓼の葉を酢でといた「蓼酢」を合わせる食し方が、古くから各地で行なわれてきた。
また、鮎のハラワタは塩辛にもされてきた。魚の内臓を塩辛にするのは鰹が知られているが、身も含めて淡水魚で塩辛にするのは日本では鮎しかない。珍味も極致といえようか。どれだけ日本人が鮎のハラワタを珍重してきたかもわかる。この塩辛は全国的に「ウルカ」と呼ばれるのが一般的だ。いったいどこでどのように生まれた言葉なのか、その語源はいまだに確かなことがわからないという。
夏の走りの背越し、盛夏の洗いという生食文化
魚介類の生食は、和食の大きな柱となっている。しかし、海の魚に比べて寄生虫を持つ可能性が高い淡水魚を生食することは少なかった。琵琶湖の湖岸では固有種のビワマス、イワトコナマズといった魚を刺身で食す習慣があるが、漁師や料理人が水質と魚の健康状態を見極めていく文化も育っていったのだろう。現在、京都だけではなく全国的に鮎の生食料理を出す料理がある。これは、郷土料理というよりも外食文化の中で生まれたもののようだ。生産、流通、料理の下ごしらえがしっかりして確立している中で発展したのだろう。川魚の寄生虫も、冷凍、加熱をすれば処理が可能だ。また、養殖産業も充実しているため、そこでは寄生虫予防の策も講じられている。
「背越し」は、若鮎を使う。10cmを少し超えたぐらいの大きさでしかない6月頃までの鮎が適すといわれる。ハラワタを取り除き、輪切りにし、まだ柔らかい骨ごと食す。料理界では大阪の料亭が30年ほど前に初めて出し始めたというのが定説である。氷を敷き詰めた小鉢に乗せ、夏の始まりを告げる先づけといった具合に仕上げるのが定番のようだ。鮎の個性である川苔の香りがほのかに立ち上がり、非常に透明感の高い料理である。酢味噌か蓼味噌を合わせることが多い。
美山での鮎の背越しの調理例。地元では一般家庭でも食される。
もうひとつの鮎の生食は洗いである。洗いという調理法は海の魚にも用いられてきたもので歴史が長い。淡水魚では鯉の洗いがよく知られている。切り身にまで下ろし終えた状態で、さっと冷水に通す。身を引き締めることと雑菌を除去する効果があるという。鮎の洗いは岐阜県が発祥らしい。鵜飼(うかい)で知られる長良川沿いには、鮎料理を名物にする料亭が軒を並べている。そうした中から生まれたかのか、真相は定かではないが、京都でも鮎の洗いが食されていたことを北大路魯山人が書き残している。
「私がまだ子供で京都にいた頃のことであった。ある日、魚屋が鮎の頭と骨ばかりを沢山持って来た。鮎の身を取った残りのもの、つまり鮎のあらだ。小魚のあらなんていうのはおかしいが、なんといっても鮎であるから、それを焼いてだしにするとか、また焼豆腐やなにかと一緒に煮て食うとうまいに違いない。それにしても、こんなに沢山あるのは一体どういうわけだろうと、子供心に不思議に思って聞いてみた。すると、魚屋の言うには、京都の三井さんの注文で、鮎の洗いを作った、これはあらだという。私はずいぶん贅沢なことをする人もいるものだなあと驚き、かつ感心した」(『魯山人の料理王国』より)
京都市内の老舗料亭に話を聞く機会があった。年々外国人の来客が増えているらしいが、まだまだ鮎に抵抗を示す外国人は少なくないという。近年、欧米では出汁への関心が高まっているというから、そうした客人に向けて鮎のあらからとる出汁なども含めて考えていくと、鮎料理の世界がより広がるかもしれない。
京都の川がもたらす恵みである鮎。食した人が京都の川に思いをはせ、機会があれば現地にも足を運んで、その美味が生まれる理由を実感してほしい。
参考文献、引用:北大路魯山人『魯山人の料理王国』(文化出版局)