投稿日: 2025年08月08日(金)

京の川巡り 第3回 宇治川の鵜飼

宇治川の鵜飼

古墳時代から続いてきた中国伝来の漁法
鵜飼(うかい)は、鵜という鳥を操って川魚を捕る漁である。歴史は長く、5世紀の古墳から鵜をかたどった埴輪が出土していて、全国各地で行われていた歴史資料が残っている。その発祥は確証とまではいかないが、稲作とともに中国大陸から伝わったというのが有力な説である。伝来は中国大陸だとしても、やがて日本の鵜飼は独自発展していった。大陸では川はゆったりと流れ、逆に日本の川は急流が多い。川の違いが鵜飼の方式を変えていったのだが、日本独特の鵜飼が育まれてきたのは、鮎の果たした役割が大きい。急な流れの川には鮎が棲みやすく、日本人はこの魚を古くから珍重してきた。その結果、大陸由来の漁法が独自の発展を遂げた。たとえば、篝火(かがりび)を焚く夜の鵜飼は中国にはない。これは、鮎が夜は餌を摂らずじっとしている習性のため、灯りを焚くことで鮎を捕獲しやすくするのだ。
京都各地でも鵜飼は行なわれていた。海の魚が得にくい内陸部で、川魚を捕って集落で分け合う。それが平安遷都で帝が住まう王城の地になると、様相が変わっていった。初夏から盛夏にかけ、宮中に鮎を届ける役を任ぜられる鵜使いも現れる。そして、のちには藩主や将軍と深い関係を持つことにより、鷹匠に準じて鵜を使う漁師は鵜匠と呼ばれるようになっていった。

嵐山と宇治で行なわれる“見せる”鵜飼
岐阜城に居城した織田信長が、長良川の鵜飼を見物したのは有名な逸話だ。以後、江戸時代を通じて長良川の鵜飼で捕れた鮎を献上品、贈答品として活用するため、尾張藩は長良川の鵜匠を庇護するとともに、賓客が来訪すると鵜飼見物でもてなした。こうして近世以降、鵜飼は“見せる”という要素を持ち始めるのである。
京都の鵜飼は、平安時代から和歌に詠まれ、絵画にも描かれてきた。貴族や芸術家が夏の風物詩として愛できた証しだ。やがて、明治に入り近代化は川の漁業にも及び、全国各地で漁業としての鵜飼が次第に姿を消していく。こうした中、“見せる”要素を際立たせて宇治では大正時代に、嵐山では昭和25年に復活し、以後は営々と行なわれている。毎年、嵐山では7月1日から9月23日まで、宇治では7月1日から9月30日まで開催される。
鵜匠の装束は、まず風折烏帽子(かざおりえぼし)が特徴的だ。麻を藍で染めて織った布で作る。篝火から飛ぶ火の粉から髪を守るため、火に強い麻が使われてきた。漁衣と前掛けは藍染めの綿。これに稲藁(いなわら)で編んだ腰蓑(こしみの)を着ける。漁衣が水に濡れるのを避けるためだ。こうした出で立ちで鵜に手縄を結び、船上の鵜匠が巧み操る。この様子を鵜飼船とは別に仕立てた屋形船から見る方式は、明治以降に生まれたものである。
鵜は潜水能力が高く、10m以上も深く潜ることができ、さらに水中を泳いでいく。まず嘴(くちばし)で挟んで一瞬で魚を気絶させ、喉の奥にある袋まで飲み込む。噛むことなく丸呑みするので魚は傷まない。俗にいう「鵜呑み」だ。ここまで済ましたのを見届けると、鵜匠は手縄を手繰って鵜を船に上げ、獲物を吐き出させて収穫する。そんな巧みな狩猟者である鵜でも、捕獲に難儀する魚が一種だけいる。鵜呑みにできないほど長い体長の鰻(うなぎ)である。「鵜も難儀する」ことから、鰻という魚種名になったという(※)。
※諸説あります。

3人の女性鵜匠が伝統を支える宇治川の鵜飼
現在、鵜飼を行なう地は日本全国に11か所ある。同じ都道府県で2か所も開催地を持つのは岐阜県のほか京都府だけだ。京都の鵜飼でも、とりわけ宇治川の鵜飼は女性鵜匠で支えられている全国でも稀有な存在といえる。日本全国で4人しかいない女性鵜匠うちの3人が宇治川にいるのだ。沢木万理子さんは宇治で最初の女性鵜匠である。
「幼い頃から鳥を飼い育てるのが好きで、鳥に関係する仕事に就きたいと考えていました。当時は年配の男性鵜匠が宇治にいらっしゃり、その方を師匠にして何も知らないところから仕込んでいただきました」
その後、沢木さんの後を追うように2人の女性が鵜匠になった。みなさん、鵜飼を開催してない時期は観光協会の職員として一般職員と同じ仕事をする。とはいえ、日頃の鵜の世話も鵜匠の大切な仕事だ。宇治橋の少し上流にある塔の島という中州に鵜小屋が設けられ、そこで鵜が大事に飼育されている。毎日の餌やりはもちろん、鵜の健康チェック、小屋の中の衛生管理も行ない、鵜匠の方々は忙しい。
鵜は長命なものは20年も生きるという。老境に達すると鵜飼は引退。舞台に出ていくのは若手の鵜だ。
鵜飼の船が発着する宇治川の塔の島。鵜飼の船が発着する宇治川の塔の島。
 
塔の島にある鵜小屋では、ウミウを間近に見ることができる。塔の島にある鵜小屋では、ウミウを間近に見ることができる。

見物の屋形船が発着するのも塔の島である。期間中、沢木さんをはじめとした宇治の鵜匠は、まだ日のあるうちから鵜小屋にいる。その日にどの鵜を出番にすべきか、鵜に優しく接して見極めていくのだ。鵜に名前を付けることはあえてしない。ただ、鵜匠は顔で個体識別ができる。そして、疲れがたまっていないかどうかを見て、出番の鵜が決まると籠に入れて乗船する。宇治川の左岸、本流が塔の島で分かれてできた緩やか流れの岸辺が舞台。屋形船が先乗りして鵜船を待つ。宇治では鵜船も見物の屋形船も手漕ぎである。熟練の船頭が巧みに操る。ゆったりした船の動きに身を任せつつ、篝火の灯りのもと、鵜と人とが眼前で共演する。まるで、歌舞伎が川の上で演じられているかのようだ。

 
鵜匠の沢木万理子さん。宇治市観光協会の職員でもある。鵜匠の沢木万理子さん。宇治市観光協会の職員でもある。
 
見学できる観覧船には、すぐ手が届きそうな近くにまで鵜がやってくる。見学できる観覧船には、すぐ手が届きそうな近くにまで鵜がやってくる。

予期せぬ産卵から始まった鵜の人工繁殖と放ち鵜飼
鵜飼に使われてきた鵜には2種類いる。野生では海岸近くに棲み海の魚を主に食べるウミウ、内陸に暮らして川魚を主に食べるカワウである。いずれも東アジアに広く分布している。中国では昔から鵜飼にカワウが使われてきたが、日本では伝統的にウミウを伴侶にしてきた。ウミウのほうが体もひとまわり大きく、潜水能力も高い。中国ではカワウを漁師たちが人工繁殖して使う。広い中国では野生のカワウを得ていくのは並大抵ではないのだ。一方の日本の鵜匠たちは人工繁殖を行なわなかった。海岸近くに古くからウミウを捕獲して各地の鵜匠たちに提供する専門家がいた。今では伝統的な捕獲技術を守る地は茨城県日立市の伊師浜海岸だけになり、そこが日本唯一の鵜の供給地だ。
野生のウミウでも人に馴れるのが早く、短い期間で戦力になってくれる。オスのほうが大きく、鵜匠はオスを好む。ただ、オスとメスの見分けは難しい。仮にメスが混じっていても飼育下でウミウは繁殖しないというのが定説であった。宇治の鵜匠、沢木万理子さんは2014年5月のことが今でも忘れられずにいる。
「鵜小屋へ餌やりをしに行くと、床に割れた卵が落ちていたんです。じつは、その数日前から2羽が木の枝を集めるなど巣作りの行動をしていました。ははぁ、メスがいて2羽はつがいになったのだと思いましたが、まさか卵を産むとは思っていませんでした。その年は合計5個の卵を産み、検卵するとそのうちの1個が有精卵だとわかり、雛が産まれました。そこから餌やり。京都市動物園の先生に来ていただいて餌のやり方を習い、育てていきました」
予期せぬ産卵から始まった宇治でのウミウの人工繁殖は、その後2015年以降も続けられ、鵜匠たちの手厚い飼育により12羽が立派に育った。こうした宇治生まれのウミウの成長を待ち、宇治の鵜匠たちが試み始めたのが「放ち鵜飼」である。これは手縄を付けず自由に鵜を放ち、川で魚を捕ったら呼び寄せる漁法だ。人工繁殖で生まれ育った鵜は、鵜匠との関係が雛のうちから濃密になるため、放ち鵜飼が可能になる。繰り返し練習をしてついに放ち鵜飼を実現させた。
「放ち鵜飼は昼間に行ない、夏は夜の船鵜飼がありますから、春と秋に放ち鵜飼を開催していこうと考えています。昼間ですと水中の鵜が見え、鵜の潜水能力に驚かれると思います」
長い歴史を持つ日本の鵜飼が、京都で新しいページが開かれた。それは取りも直さず京都と川の文化の新しい世界でもある。
 
大切に育てられたウミウ。愛称は「うみうのウッティー」。大切に育てられたウミウ。愛称は「うみうのウッティー」。
 
春と秋に実施が予定されている「放ち鵜飼」。春と秋に実施が予定されている「放ち鵜飼」。

参考文献:卯田宗平編『鵜飼の日本史〜野生と権力、表象をめぐる1500年』(昭和堂)

●宇治市観光協会
https://www.kyoto-uji-kankou.or.jp/
●宇治川の鵜飼
https://www.kyoto-uji-kankou.or.jp/ukai.html

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