投稿日: 2025年09月18日(木)

京の川巡り 第4回 川と鉄道(前編・由良川橋梁)

京の川巡り 第4回 由良川橋梁

京都府最長の鉄道橋は架橋から100年を超える近代の遺産
京都府北部は日本海に面したかつての丹後国である。日本三景に数えられる天橋立が象徴的に、白砂青松の絶景が続く。東部は福井県の西端から続く若狭湾で、日本海側では珍しいリアス海岸で、沖合は豊かな漁場となり、複雑な入江は天然の良港を作る。丹後、「海の京都」には江戸時代に北前船の拠点だった港が点々とある。
明治になり、こうした丹後の港のうちの2港が、それぞれ別の役割を得て日本の近代化を支える港として期待されていった。舞鶴港と宮津港である。まず、舞鶴が軍港として拓かれた。しかも、日本海側唯一の海軍の重要拠点、鎮守府となったのである。一方の宮津は貿易港としての開発が計画された。時は富国強兵の時代である。軍港である舞鶴にはいち早く京都から官設鉄道(後の国鉄)が敷かれた。宮津の陸上輸送手段の開発はやや遅れる。ようやく舞鶴から宮津へ官営鉄道「宮津線」の施設が計画され始めたのは、元号が大正になってからである。

現在、舞鶴市と宮津市は、由良川が大半の市境となっている。この川の最下流部は非常にゆったりした流れとなり、湖と見まがうほどだ。約20kmの間に6mほどしか傾斜せずに若狭湾に流れ込むという。そのため、川幅を広げた由良川の河口は、川と海との境目がわかりにくい伸びやかな水の景観を作り、さらに日中は空と川や海の境目すら見失う。こうした自然が作り出す絶景の中に、1本の橋が架かっている。それが「由良川橋梁(きょうりょう)」だ。
完成は1924年(大正13年)。23基の橋脚の上に載る鉄橋に欄干はなく、上流側に手すりのような柵があるだけで、橋の上を走る列車の車体は遠くからでもよく見える。全長は約550mで鉄道橋としては京都府最長を誇る。さらに、水面から橋桁まではわずか3mと、非常に低い位置に単線の線路を載せて架かる。2015年、土木学会により「土木遺産」に認定された、まさに近代の遺産といえる鉄橋である。
 
建設中の由良川橋梁
建設中の由良川橋梁。当時としてはかなりの技術を要する工事だった。写真:舞鶴市所蔵。

由良川の名の由来から偲ぶ左岸の町のかつての繁栄
由良川河口に鉄橋も架り、西舞鶴駅を起点に西へ延びる鉄道は、宮津、天橋立を経て、のちには京丹後市を横断して兵庫県豊岡市まで延伸された。現在は民間企業WILLER TRAINS株式会社が運行業務を行ない、観光列車のレストラン列車「丹後くろまつ号」やカフェ列車「丹後あかまつ号」などは予約の競争率が非常に高い。地域の生活の足として各駅停車も走っていて、こちらはローカル線に心寄せる旅人からは垂涎の的となっている。
 
由良川橋梁を走る「丹後あかまつ号」。提供:WILLER TRAINS(京都丹後鉄道)
由良川橋梁を走る「丹後あかまつ号」。提供:WILLER TRAINS(京都丹後鉄道)
 
由良川右岸にある東雲(しののめ)駅にて
由良川右岸にある東雲(しののめ)駅にて。各駅停車に乗って、のんびり川を巡るのも一興。

鉄道は人や物資とともに文化を運ぶ。その意味では川も同じだ。鉄道や道路が今のように整備される以前、川は舟運によって上流から下流へ、下流から上流へ人と物資、そして文化を運ぶ“道”であった。加えて江戸中期から明治を通じ、日本海には北前船が行き交っていた。日本海側の各地域と瀬戸内海地域、さらに天下の台所である大阪を結ぶ航路を操行した商船である。当時、宮津は北前船の寄港で繁栄し、大きな歓楽街を有した。宮津節に残る「二度と行こまい丹後の宮津 縞の財布が空となる 丹後の宮津でピンとだした」という一節は、往時の賑わいを今に伝えている。
 
西神崎の蔵から発見されたチラシ
西神崎の蔵から発見されたチラシ。北前船の寄港地としての丹後由良港の往時を偲ばせる。

由良川河口部の左岸にある由良は、中世の芸能をもとに森鴎外が書いた『山椒大夫』で物語の舞台とされた町。安寿と厨子王の姉弟を苦しめる山椒大夫は由良の長者とされた。江戸時代に田辺藩から公認を受けた5港のうちのひとつとなり、最盛期は北前船の船主が29軒もあった。この町に生まれた加藤正一さんは、「由良の歴史をさぐる会」に加わって郷土史を丹念に調べている。
「北前船の全盛期、由良には2200人に達しようという人口がありました。当時の由良の石高では、それだけの人の生活を支えられません。北前船で遠方から食料が届き、船舶輸送業で資金を得られたから、人口を支えるだけの食料も購入できたのですね。江戸後期に全国を測量した伊能忠敬を中心に書き上げられた『大日本沿海興地全図』には、由良川という記載はありません。『大川』と記されています」
加藤さんによれば、「大川」という記載は他にもたくさんあるという。たとえば、貝原益軒が1689年(元禄2年)に刊行した紀行集『西北游記』だ。そこには、「福知山に着く、山上には城あり、城下町は広からず、朽木伊予守殿居城也、大川その東北を流れる。川舟多し是より舟に乗りて丹後の由良に下ると云う」とあり、川名とともに舟運が盛んだったことも伝えている。それでも、由良川という記載が古くにはなかったわけではなく、1720年(享保5年)刊行の今井以閑(いまい・じかん)による『橋立の道すさみ』には、「由良川という大河なれば大船ども川上にのぼる」とある。おそらく、大川と由良川のふたつの川名が同時に存在していた時代があったのだろう。
本流はひとつの名にしようと、「由良川」を正式名にしたのは1896年(明治29年)の旧河川法だ。由良の対岸、由良川の河口部の右岸には神崎(かんざき)という集落がある。この地は由良よりのどかであった。それがためだろうか、河口部の地名を川の正式名にするという考えもあった旧河川法に、神崎は取り上げられることはなかった。

 
京都丹後鉄道の丹後由良駅
由良川河口の西側に位置する、京都丹後鉄道の丹後由良駅。周辺には、由良石を使った塀をもつ家も残る。
 
由良側から望む由良川橋梁
由良側から望む由良川橋梁。写真奥が神崎側となる。かつて由良川河口には砂嘴(さし)があったという。

駅の設置が遅れたため、右岸の町には独特な橋の物語が紡がれた
リバーの語源をたどっていくと、ライバルと同根であることがわかる。川の上流と下流、左岸と右岸では平穏な関係ばかりではなく、張り合うような感性も培われていったのだろうと説く学者もいる。現在、由良は宮津市で、神崎は舞鶴市だ。かつて神崎にも船主はいたが、最盛期で比較して由良の3分の1である9軒であった。舞鶴と宮津を結ぶ鉄道が開通すると同時に丹後由良駅は設けられたが、地元の請願によってようやく丹後神崎駅が設置されたのは1957年(昭和32年)のことだった。
由良川河口に近い神崎には、約2kmにわたって白砂の海岸が延びる。遊歩道も整備されていて、静かで美しい。防潮林の木立の中には「浜茶屋」が点々と軒を連ねる。いわゆる海の家を、この地では浜茶屋と呼んできた。6月初旬から9月末日まで営業する。浜風を浴びながらのんびりと過ごすには、程よい長閑かさをたたえた建物ばかりである。
 
美しい砂浜が延々と続く神崎海水浴場
美しい砂浜が延々と続く神崎海水浴場。丹後神崎駅からは徒歩15分ほど。

「今年はキスがよく釣れますよ。神崎で“鉄砲キス”といってきた大きいのがどんどん上がっています」という松村俊弥さんは浜茶屋を経営し、現在は神崎観光協会の会長を務めている。
「キスだけではありません。神崎では太刀魚、スズキ、ボラ、コチ、クロダイ、それからシノハ(ヒイラギ)といったところが昔から獲れる。いつも食卓にあがりました」と話すのは、松村さんの浜茶屋に集まった地元の方々のひとり。丹後神崎駅ができる以前を知る年配のみなさんだ。由良もそうだが、神崎でも中学に上がると鉄道を使って通わなければいけなかったという。
「神崎の人は丹後由良駅まで歩いたの。本当はいけないのだけど、鉄橋を渡ってね」
鉄橋とは由良川橋梁のことである。橋の上流側にわずかにあるスペースを歩いたのだ。
「枕木が子どもの腰あたりかな。汽車が通れば伏せたよ」
集まった中には、鉄道の機関士だったという男性もいた。
「蒸気機関車の時代も長かった。もくもく煙を上げながら走っていくので、橋の上を歩いている人は気の毒だったな」
 
かつては蒸気機関車が走るのが常だったという
かつては蒸気機関車が走るのが常だったという。神崎の方が所有されている写真。
 
丹鉄の普通列車の先頭車窓から
丹鉄の普通列車の先頭車窓から。短い時間だが、由良川橋梁がよく見える。

人が通れる橋すらなかなか架からなかった川を、法に触れることなく渡る手段は昔からあった。渡し船である。かつては由良川の河口部には5つの場所で渡し船が運行されていた。神崎と由良の間は、戦後になってもかなり長い間残り、渡し船に乗ったという人もいた。
「船に座っていると、川の水がもう間近でしょ。鉄橋を渡るのと同じくらい怖かったわよ」
橋のない川の渡し船は道路と同じ扱いを受けていることがよくある。道路でつながるところと同じように、自由な往来ができるようにしようという政策だ。神崎と由良の間も「府道」として運行し、手漕ぎの木造船へ乗るのは無料だったという。

 
府道神崎・由良間の渡し舟
府道神崎・由良間の渡し舟。神崎の町史資料冊子より。
 
神崎にお住いの方々
貴重な証言をしてくれた神崎にお住いの方々。

同じ時代を生き、苦労をともにしてきた同士の昔話は生きた歴史だ。鉄道橋を歩いて渡るなど今では許されることではないが、必死に生きる逞しい姿が垣間見られる。また、渡し船に乗って通学、通勤をした記憶などめったに聞けるものはない。そんな神崎とは異なり、対岸の由良には舟運が盛んだった時代を丹念に掘り起こす人々がいる。由良の舟運も細々だったとはいえ戦後も残っていたのだ。まだその時代を記憶している人がいる由良川の河口部で両岸の白砂青松の風景を歩けば、ふとした拍子に昔話を聞けるかもしれない。きっとそれは飛び切りの旅のご馳走になるだろう。

取材協力/舞鶴市郷土資料館、神崎観光協会、由良の歴史をさぐる会、WILLER TRAINS(京都丹後鉄道) 主な参考文献/『由良公民館だより』、『宮津市史』

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