投稿日: 2025年11月18日(火)

京の川巡り 第6回 三川合流

京の川巡り 第6回 三川合流

三つの川が出会う珍しい景観は治水と舟運の歴史を物語る
大山崎町、その南の八幡市の境のあたりは、とても複雑な地形だ。そうさせているのは水の流れ、川である。「三川合流」と呼ばれる。ここでの規模ほどの三つもの川の合流は、日本では珍しい。琵琶湖に端を発する宇治川、三重県の伊賀が源の木津川、そして京都市北部の佐々里峠(ささりとうげ)から流れ出て大堰川(おおいがわ)、保津川と名を変えながら伏見で鴨川として南流してきた桂川が合流するのだ。一本の川になると淀川として大阪湾に注ぐ。河川法では宇治川が本流と見なされ、三川合流のやや上流から淀川の扱いとなる。
御幸橋(ごこうばし)のたもとにある『さくらであい館』の高さ約25mの展望塔に上って眺めると、東北に京都市内の町並み、眼前には川の流れが見える。木津川と宇治川の間にある淀川河川公園・背割堤(せわりてい)地区は1.4kmもの長さにわたってサクラが植えられ、西日本では有数の花見の名所だ、また、この一帯には東海道本線、東海道新幹線、阪急京都本線、名神高速、京滋バイパスなどが、これまた複雑に走っている。
かつては川での舟運が物や人を運んだ。近代以降は鉄道、道路である。それらが入り乱れる景観は、この地が現代までの物流と人流の要衝、あるいは分岐点であった証である。南に行けば古都の奈良であり、川筋に沿って西に向かえば天下の台所である大阪だ。双方からすれば、この地は京都への入り口となる。
ただ、こと川の流れをとれば、現在の景観となったのは、そう古くはない。最終的に今の三川合流となったのは大正7年から昭和5年まで行なわれた改良増補工事であった。工事以前は桂川と宇治川、木津川は少し上流の淀で合流していた。さらに現在の京都市伏見区、宇治市、久御山町にまたがっていた巨椋池(おぐらいけ)のあふれた水も淀へと流れ込んでいた。巨椋池は、三川合流の工事とほぼ時を同じくする昭和8年から16年までの工事で最終的に干拓された。
 
さくらであい館『さくらであい館』は、京阪電車・石清水八幡宮駅から徒歩約10分。
https://www.yodogawa-park.jp/sansen/

 
高さ約25mの展望塔から見た背割堤の風景高さ約25mの展望塔から見た背割堤の風景。春には桜が咲き誇る。

南側には平安時代に石清水八幡宮が創建された
古代、中世期の淀川は、京都と瀬戸内海を結ぶ最重要の物流ルートであった。かつての三川合流の地だった淀、その下流にあった八幡、大山崎周辺は、こうした物流をまとめる、荷揚げする都市であり、まさに京都を下支えする集落となっていた。また、同じ淀川沿岸の鳥羽や宇治、水無瀬(みなせ)には、天皇の離宮、公家による別宅が構えられ、淀川下流より芸能や文学の才能に長じていた遊女たちと遊興の場を形成していた。物流や人々の交流は、こうした河川交通が支えていたことになる。
桓武天皇が言うように、もともと平安京は「山河襟帯」(さんがきんたい)の地として、自然の地形を周囲からの脅威に備えようとしていた。周囲に山地が広がっていた点に平安京、京都の特徴があった。このうち西側には愛宕山(924m)を盟主として、西山の山並みが続き、その南の先端に突き出るのが天王山(270.4m)。そして山崎地峡を挟んで対岸にあるのが男山(142.5m)である。三川合流して淀川となった水の流れは、この地峡を越えて、大阪平野を経て、大阪湾へと流れ出ていく。
現在、淀川右岸で天王山の麓にあるのが、大山崎町、そして男山側が八幡市となっている。大山崎は燈油の発祥の地である。その原料である荏胡麻(えごま)は、おもに瀬戸内海沿岸の国々から淀川舟運によって運搬されてきた。大山崎で搾られた油は、京都で売られていった。一方、男山の頂にある石清水八幡宮は、全国にある八幡社の元締めのような存在であり、古代、中世期、瀬戸内海沿岸に数多くの荘園を持っていた。各地の荘園から運搬される年貢米は、外港だった橋本で陸揚げされて八幡にもたらされていた。都市である八幡は、石清水八幡宮のある山上と、それを支える山下の街、そしてさらに周辺の農村と、二重三重となって八幡宮を支えていた。広い境内には本殿をはじめ10棟の建物、3枚の棟札が国宝で、摂社5社、総門、そして三門を合わせた8軒の建物が国の重要文化財に指定されている。禰宜の私市靖さんはいう。
「ご由緒によりますと清和天皇の時代の859年、南都・大安寺の行教和尚が今の大分県の宇佐八幡宮にこもり、そこで八幡大神のご託宣をこうむりました。『吾れ都近き男山の峰に居座して国家を鎮護せん』と。これを受けて同年、この地にご神霊をご泰安し、朝廷の命によって翌年八幡造りの社殿が造営されました。以来、王城鎮護の神、伊勢神宮に次ぐ国家第二の宗廟として皇室のご崇敬を受けてきたわけです。方位の吉凶を示す風水で西南は裏鬼門。京の都の裏鬼門を封じる役割もありました。都の上賀茂、下賀茂を合わせた賀茂神社は賀茂家の氏神であり、平安京以前から今の京都の地を守っています。当宮は長く賀茂神社と同格です。それは、この地が京の都の入り口で、暴漢の侵入からまず都を守る場所だったからでもありました。一般の参拝ではなく皇室、武家が国家鎮護と戦勝を祈願するところだったのです。往時は男山に武家それぞれの宿坊があり、その数は48にまでおよびました」
京阪電車の石清水八幡宮駅に隣接して、ケーブル八幡宮口駅がある。男山へは、この石清水八幡宮参道ケーブルで上るのが便利だ。約3分でケーブル八幡宮山上駅。男山展望台からは遠く京都の街が望め、この地が要衝であったことが実感できる。
ここから八幡宮はもう近い。境内に入ると織田信長が寄進した土塀、楠木正成が植えさせたクスノキなどが目に留まり、武将と縁深いことがわかる。毎年9月15日の石清水祭は、天皇の勅使が派遣されて行われる勅祭だ。これを行なうのは全国に16社しかなく、その中でも勅祭石清水祭は賀茂神社の葵祭、春日大社の春日祭とともに「三大勅祭」に数えられている。勅祭石清水祭で、この地が水と切っても切れないことを表わす祭儀が執り行われる。古くは「石清水放生会」、現在は「放生行事」といい、生きとし生けるものの平安と幸福を祈願し、魚を男山の裾を流れる放生川に放つのである。
 
国宝の石清水八幡宮 御本社国宝の石清水八幡宮 御本社。
 
織田信長が寄進したという黄金の樋織田信長が寄進したという黄金の樋。※通常、非公開。

 
御神木大楠楠木正成公が必勝祈願参拝の際に奉納したとされる御神木大楠。

油業発祥の大山崎と、淀の豊かな流域文化
天皇を中心とした朝廷という政治体制は、平安京を造営し、14世紀頃までは西日本の政治や経済活動に権限を振るっていた。しかし、室町幕府の3代将軍足利義満は、武士の側から、こうした朝廷の権限を統合するようになった。以後、武士たちが公権力を支える時代となっていくが、15世紀後半の応仁文明の乱によって、公が分裂すると改めて戦争が続くようになる。16世紀後半に、織田信長は戦乱を収めようとするが、彼自身が重臣の明智光秀の裏切りにあい、本能寺で横死する。これを聞いた羽柴秀吉は、前線から戻り、この山崎地峡近くで光秀を撃破していく。これが有名な山崎合戦である。
秀吉は、朝廷の中に入り、関白職に就き、豊臣姓を獲得する。以後、彼は聚楽を築造したことを契機に、京都において多彩な土木事業を実施していく。豊臣政権の最大の特徴は京都だけでなく、淀川河口の大坂も政治拠点に置いていたことだ。そのため秀吉は、京都と大坂を結ぶ淀川舟運を常に気にしていた。まず、巨椋池から宇治川を切り離して、これを迂回するように北へと流させた。その際に伏見に港を築き、京都における外港の場を決定的とした。彼自身も伏見城を構築し、最終的には聚楽に替わる豊臣政権の拠点としていく。さらに、伏見には舟運だけでなく陸上の道路も集約化させた。特に太閤堤によって淀川の固定化を図る一方、堤防の上に街道を置いて、伏見、淀、八幡、宇治など、河川に隣接する都市を陸上交通でも結びつけたのである。大山崎町歴史資料館の館長である福島克彦さんはいう。
「三川合流を考える際、その周辺に淀、八幡、大山崎といった都市集落が切磋琢磨していたことに関心をもってほしいですね。大山崎は油売りで知られていますが、実は14世紀頃に塩商売にも手を出そうとしたのを淀に阻止されたことがありました。淀川の水運についても、権益をめぐってさまざまな勢力が抗争を続けていました。そうしたなか、秀吉の土木普請は、特に河川に沿うように堤防を築き、その上に街道を通し、治水、舟運、そして陸上交通の利便性を併せて高めていきます。今まで張り合っていた都市の間も権益を整理していき、しっかりと結び付けてしまうんですね。秀吉の土木事業は近世期畿内の交通体系を決定づけていくのです。そして徳川政権も伏見城を破却した際、改めて淀を重視し、再び築城を進めました。淀城は天守台が残る近世城郭として知られていますが、もっと注目されてもいいのではないでしょうか。特に最近は回遊式の大名庭園もあったこともわかっていますが、これは木津川の付け替えとも深いつながりがありました。淀城は軍事的な城であるとともに、庭園を中心とした文化的ゾーンの存在も重視していたのです」
大山崎町歴史資料館には「山崎津」といわれ、舟運の湊として栄えた時代の山崎の立体模型がある。それを脳裏に刻み込むと、現代の風景も違って見えるはず。また、常設展示に加えて今年(2025年)の秋、企画展「三川合流と淀・大山崎〜淀川と沿岸の歩み〜」を開催(11月30日まで)。庭園まで描き込んだ淀城の絵図も展示されている。
 
当進軒文庫旧蔵絵図 淀総絵図大山崎町歴史資料館の企画展「三川合流と淀・大山崎〜淀川と沿岸の歩み〜」で展示されている「当進軒文庫旧蔵絵図 淀総絵図」(京都府立京都学・歴彩館所蔵)。かつて三川合流は淀のあたりだったことがわかる。

淀川の本流に沿った東海道の四宿場
物流、人流の道が、川から鉄道、道路にとって換えられたことにより、人の心は川から離れていったのかもしれない。しかし、実際には鉄道や道路もかつての道である川に沿っていることが少なくない。大山崎町や八幡市を歩くと、この地がいかに古くから京の都を支えてきかがわかる。発見のためには移動の速度を遅くするのがよいのだろう。最近、八幡市では石清水八幡宮駅前の観光案内所でレンタサイクルを用意するなど、訪れる人に自転車での旅を勧めている。嵐山から三川合流の地までの約20kmのコースや、三川合流の地から大阪・関西万博の会場だった淀川河口部の夢洲までのサイクリング・マップなどが駅前観光案内所で配架されていた。足腰の健康が必要ではあるが、達成することができれば発見の旅になることは間違いない。
馬車交通が西洋ほどに発達しなかった日本では、かつては歩くことが主な移動手段であった。そして江戸時代には街道が整備された。五街道に数えられる主要な街道のうち、その筆頭といえばなんといっても東海道である。この街道は、新しく武家政権の中心となった江戸と帝の住まう京の都を結び、道中に五十三次の宿場町があったが、徳川幕府は後に江戸から大坂まで東海道を整備。京の都のひとつ前の大津宿から、京への道と分離して大坂まで東海道を延伸し、やがて沿道には伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿ができた。これらを追加して東海道は五十七次となった。
この延伸された街道は京街道とも呼ばれた。琵琶湖から出ていく唯一の川である瀬田川の流れ始めが大津市瀬田である。この川が京都府に入ると宇治川と名を変え、淀川の本流と見なされつつ桂川と木津川を合流し、名実ともに一本の流れとして淀川になる。伏見、淀、枚方、守口は淀川本流の沿岸にある町といいっていいだろう。この京街道は秀吉の普請の上に乗った。江戸へ移った徳川家康も関東平野の治水に苦難した。「山河襟帯」として盆地という自然の地形を生かして都を造営する時代は終わり、戦国時代から近世にかけ、都の造営には本格的な治水が欠かせなくなっていったのである。

 
淀城址淀城址。京阪電車・淀駅から徒歩約5分。


主な参考文献/田中恆清『八幡様のすべて〜石清水八幡宮の宮司が語る謎多き神』(新人物往来社)、福島克彦「三川合流の変遷と周辺都市」(講演録・八幡の歴史を探究する会)、『淀川と水辺の風景』(第20回企画展図録・大山崎町歴史資料館)
写真提供/八幡市観光協会、石清水八幡宮、京都市観光協会(淀城址)

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