京の川巡り 第7回 川と都
京都府最南端、現在の木津川市にあった「幻の都」恭仁京
京都から奈良へ伸びる道路も鉄道も、府県境をまたぐ前に木津川を渡る。三重県伊賀地方の布引(ぬのびき)山地を源に、山々から流れ落ちる水を集めて西に流れ、木津川市上狛(かみこま)地区あたりで北向きに流れを変えて、やがて宇治川、桂川と合流して淀川として大阪湾に注ぐ川だ。この木津川の間近、現在の木津川市域に、かつて都が造営された。それが恭仁京(くにきょう)である。京都は「千年の都」といわれる。その数え始めは、今の京都市内での平安京か、それより10年前の長岡京かとするのが普通だろう。恭仁京は、現在の京都府内への遷都が完結する前、たった3年3か月の都であった。
昭和48年(1973)年から本格的な発掘調査が始まり、すでに100回を超える調査行われているが、いまだに全貌は解明されていない。まさに「幻の都」である。それでも、『続日本書紀』の記述を裏付ける遺構や遺物が見つかり、平城京の中心的な建物であった大極殿が移築されるなど、永続を構想して遷都が行なわれたことがわかってきた。時代は740年から744年。大きな瓦屋根を乗せた天平の甍が、現在の京都府最南端の地でも偉容を誇っていたのだ。
木津川が北向きに流れを変える上狛地区に京都府立山城郷土資料館がある。ここは木津川市をはじめとした京都府南部である南山城地域の歴史資料を収集、展示するほか、市民講座を多数開催し、郷土史のセンターとして活気がある。現在館長を務める福島孝行さんは、大学で考古学を学んだ文化財技師。恭仁京跡の45回目の発掘調査にも参加した。
「恭仁京跡は南北約750m、東西約560m。大極殿を取り囲む回廊も平城京から移築されました。大極殿の北には天皇家の私的空間である内裏も造られ、恭仁京には内裏が東西に2棟建っていたんですね。東西内裏のどちらに聖武天皇が住まい、どちらに元正上皇が住んでいたのかは現在も議論が交わされています。遷都にいたった理由は、まだまだ確定できませんが、当時の平城京には天然痘が蔓延し、政務を担っていた藤原氏の重鎮が相次いで死去するなど苦難が続きました。そして、九州で藤原広嗣の乱が起こっている間に聖武天皇は東国行幸を始め、大和を出て伊賀、伊勢、美濃、近江と行幸を続け、山背(山城)にやってきて、そのまま大和には帰らず恭仁京へ遷都しました。この南山城の地は、藤原氏に代わって台頭してきた橘諸兄(たちばなのもろえ)の本拠地だったのです」
発掘された恭仁宮の軒瓦。平城宮から運ばれたと考えられているものもある。
京都府立山城郷土歴史資料館。この地域で発掘された貴重な資料などが展示されている。
日本を代表する「砂河川」を渡り、みかの原を歩く
現在、都の跡は国の史跡に指定されている。公共交通で向かうとすれば、京都駅からJR奈良線で木津駅まで行き、そこでJR大和路線に乗り換えて東に向かって加茂駅で降りる。ここから史跡の方面へコミュニティバスが出ている。加茂駅前の市街地を抜けて恭仁大橋で木津川を渡る。
木津川は、古くは泉川といった。流域各地で泉が湧いていたのだ。伏流水が地上に湧いて出るのは、木津川が周囲の山々からこぼれ落ちる風化花崗岩を大量に運び、流域は湧水が噴出しやすい砂地になっているからだ。もとより、木津川の河床も砂である。河川工学ではこうした川を「砂河川」ともいうが、木津川は日本を代表する砂河川。下流には大きな裸地砂州がいくつもでき、その白砂の美しさは古くから和歌に詠まれてきた。近代になっては明治33年(1900)に作られた「鉄道唱歌」関西線9番「加茂」の歌詞が知られている。
恭仁の都の跡と聞く 加茂を出ずれば左には
木津川しろく流れたり 晒せる布の如くにて
かつて「津」は川湊を指した。木津川は木の津、つまり川を使って運ばれた木材の荷下ろしをする湊だったのである。泉川の木の津ということで、現在の木津川市木津地区は「泉木津」と呼ばれていた。東大寺の造営のための木材供給地に「高島山」との記録が残る。現在の滋賀県高島市の山間部のことだ。切り出された木材は、安曇川を通じて琵琶湖に出て、今でいう瀬田川、宇治川を下って巨椋池に入り、そこから木津川を遡って泉木津から陸路で奈良へ運ばれたのだろう。
さて、木津川を渡るとバスはのどかな山村風景の中を進む。恭仁京跡の史跡のあるあたりは古くから、みかの原といわれた。「𤭖原」「三日原」「三香原」などの表記が残る。「恭仁宮跡」のバス停で降りれば、史跡はもう近い。そこには、復元建築はまったくない。かつて大極殿が立っていた地に建物の敷石が残る。大きいものは直径約1.5mもある。長い時間が敷石の表面を風化させたが、太い木の柱を据えるための柱座は残っている。何より手で触れることができるのがいい。少ない遺物の点在を見るは、歴史ある建造物を目のあたりにするのとは別種の醍醐味だ。失われた世界を求めて史跡に立ち、想像力を駆使するのである。木津川市観光協会の大道宏美さんはいう。
「恭仁京は都が造営され始めて4年足らずで、また遷都になってしまったんですね。平城京から移築された大極殿は、遷都後は国分寺になりました。そのため史跡は『恭仁宮跡(山城国分寺跡)』と記します。国分寺になってからは大極殿だった建物は金堂になり、新たに七重塔が造営され、その敷石も塔が建っていたときと同じ位置のまま残っています。歴史感じる史跡周辺を歩くコースは私たちもお勧めしています。史跡の近くには地元の方々によって約4000株ものコスモスが植えられ、秋には見事な花畑ができます。のどかな里山をゆっくり歩いて遠い昔の都に思いを馳せてほしいですね」
恭仁宮跡である史跡山城国分寺跡。広々とした敷地内に大きな礎石が残る。
恭仁宮跡から東へ約2.6kmの場所に、和同開珎鋳造跡の銭司(ぜず)遺跡もある。
奈良時代から平安時代への時の流れと木津川の流れ
平安京が造営されて本格的に「京都千年の都」の歴史が始まった後、大和朝廷の時代から政権を支えてきた藤原氏の末裔が、みかの原を詠んだ歌はもの悲しさが漂う恋歌である。
みかの原 わきて流るる 泉川 いつ見きとてか 恋しかるらむ
これは『源氏物語』を書いた紫式部の曽祖父にあたる藤原兼輔(877~933)の歌だ。『新古今和歌集』に収められ、「小倉百人一首」の中の一首でもある。どこか泉川(木津川)が恋しい人との間を分つかのようだ。恭仁京跡の史跡の北に海住山(473m)がそびえる。頂上の少し下にある展望台から、みかの原の風景が一望できる。南に目を向けると東西に木津川が何かを分つかのように、とうとうと流れているのが見える。南西には奈良の町も遠望できる。木津川を挟んで南と北で奈良時代と平安時代の中心地がある。
海住山の展望台は海住山寺(かいじゅうせんじ)の境内で、コミュニティバスが参道まで来ていて「海住寺口」のバス停で下りれば拝観しやすい。この古刹は、寺伝によれば聖武天皇の勅願により十一面観音像を本尊に藤尾山観音寺と号して開山されたのが始まりで、735年のことだというから恭仁京遷都より5年も早い。聖武天皇がこの地をいかに大切に思っていたかを物語る。平安時代末期に焼失して廃寺となったが、鎌倉寺初期には再興されて寺名を補陀落山(ふだらくせん)海住山寺とした。五重塔は国宝だ。そのほか建物1棟、仏像6体、曼荼羅1幅、文書16巻が国の重要文化財に指定されている。往時には、境内に58もの塔頭があったというから、海住山は「南の比叡山」といっても過言ではないのかもしれない。
春は桜、秋は紅葉が美しい海住山寺。写真提供/木津川市観光協会
海住山の展望台からの景色。恭仁宮跡から奈良方面まで望める。
ただ、恭仁京は天平15(743)年に造営が停止され、その後、現在の大阪市中央区に平城京の副都であった難波宮へ正式に遷都してしまう。しかし、1年足らずで今度は現在の滋賀県甲賀市信楽にあった離宮をもとに、紫香楽京(しがらきのみや)として再び遷都した。これには人臣の賛同を得られないばかりか、山火事や地震が起こったことも加わり、やむなく平城京へ戻すことになった。前出の山城郷土資料館の館長、福島孝行さんはいう。
「こうして遷都を繰り返したのですが、その始まりともいえる恭仁京遷都の時期、それまでの状況を刷新する政策が打たれました。そのひとつが、墾田永年私財法の発布でした。それまで自ら開墾した農地は、3代まで所有することが許されていました(三世一身法)が、3代目になると次の世代には所有権が消滅するこの法によって農民たちのやる気は削がれ、今で言う耕作放棄地が増えていたのですが、自ら開墾した土地は永続的にその子孫が所有できるようにしたのです。そして、もうひとつが国分寺建立の詔の発布です。これは仏教を思想的な基盤にした国家運営を行おうという宣言といってもいいでしょう。大仏の置かれる寺を総国分寺とし、全国各地に国分寺を造って思想伝承の場としようという壮大な構想でもありました。大仏は結局、東大寺に置かれ、そこが総国分寺になりましたが、聖武天皇は平城京での混乱を憂い、平安を願う意図を完結させる場として恭仁京を造営したのだと思います」
私たちは、たとえば政権交代といった大きな出来事があると、その前後でガラリと歴史が変わったように捉えすぎるのかもしれない。歴史も川の水のように流れて動く。上流と下流だけではなく、その狭間である中流を見なければ流れの本性は掴めない。恭仁京が造営された、みかの原のあたりはちょうど木津川の中流域だ。
木津川の中流域で流れが蛇行した地域の北側に恭仁宮があった。
主な参考文献/京都学研究会編『京都を学ぶ〜文化資源を発掘する【南山城編】(ナカニシヤ出版)、『令和七年特別展 天平の風、山背に薫る』(京都府立山城郷土資料館)、『南山城の古寺』(飛鳥園)、田中恆清『八幡様のすべて〜石清水八幡宮の宮司が語る謎多き神』(新人物往来社)、福島克彦「三川合流の変遷と周辺都市」(講演録・八幡の歴史を探究する会)、『淀川と水辺の風景』(第20回企画展図録・大山崎町歴史資料館)
写真・図版提供/京都府教育庁文化財保護課