投稿日: 2026年01月16日(金)

京の川巡り 第8回 保津川と角倉了以

京の川巡り 第8回 保津川と角倉了以

河川行政上の桂川より地域の通称である保津川で知られる流域
京都市左京区広河原の左々里峠付近に端を発し、大山崎町付近で木津川、宇治川と合流する川がある。河川行政の上では全流域を桂川としているが、上流部では大堰川(おおいがわ)という古くからの地域の通称で呼ばれている。そして、水源から西流して右京区京北町を過ぎて南流し、亀岡盆地に入ると、川の地方名は保津川に変わる。おそらく、桂川より保津川という名のほうが広く知られているだろう。ただ、保津川と呼ばれる部分は長いわけではない。桂川としての全長約114kmのうちの約16kmだけである。亀岡盆地でも保津橋付近から嵐山の渡月橋の少し上流あたりまでだと、おおむね現在の流域の人々による共通認識のようだ。この約16kmは、川の流れが長い間に両岸を侵食し、険しいV字谷をつくりあげた。保津峡である。川に沿う車道はない。流域は激流、深い淵があり、また奇石、怪石が目白押しだ。
明治33年(1899)、難工事の果てに京都鉄道が嵯峨駅から園部駅まで開通して保津峡の中腹部を通るようになった。現在の通称「嵯峨野トロッコ列車」、嵯峨野観光鉄道である。渓谷は多様な落葉広葉樹にアカマツを加えた自然林に、スギ、ヒノキの人工林が入り混じり、秋になれば紅葉と常緑の美しいコントラストをつくり、多くの旅人を迎える。こうした京都府随一の観光地である保津峡をつくる川だから、今も保津川の地方名が河川行政上の川名より偉名を誇っている理由に違いない。

 
保津川下りの一部流域では、嵯峨野トロッコ列車と遭遇できる保津川下りの一部流域では、嵯峨野トロッコ列車と遭遇できる。

筏流しからの操船技術が保津川下りに生かされる
桂川としての全流域の歴史を辿ると、古くからこの川が「水の道」として重要だったことがわかる。上流の丹波国山国壮(現在の右京区京北町)の木材が、長岡京、平安京の造営に使われていったのを皮切りに、京の都の発展を支えた。そればかりではなく三川合流を経て大坂湾に出て各地に運ばれていったのだ。
山国荘で「山方」と呼ばれた林業家が伐り倒した木材は、「筏(いかだ)問屋」によって筏に組まれて川を下った。そして、嵯峨、梅津、桂の「三か所木材問屋仲間」によって京や大坂に売り捌かれていった。こうした木材流通の主要な手段であった筏流しで、保津峡はいちばんの難所だ。そのため、今の亀岡市保津町界隈に保津峡を越えるための専門筏師が育っていった。筏師は上流部での筏組みを「平川造」といい、保津峡に入る手前で細長い「荒川造」に組み直したという。この専門筏師からの操船技術が、現在の保津川下りにまで引き継がれていくのである。保津川遊船企業組合の代表理事、豊田知八さんはいう。
「京都に旅行で来られ、滞在中に保津川を下ってみようというのは、日本人というよりむしろ外国人の方々が目をつけたんです。明治14年(1881)にはイギリス王室の方々が楽しまれました。一行の中には後の国王ジョージ5世がいたのです。その皇太子のエドワード王子も大正11年(1922)に保津川下りをされました。昨今、年間20万人ほどの方々が乗船してくださっていますが、そのうちの約7割が外国人の方々です。
保津川の遊船事業は戦後、京聯(きょうれん)自動車、阪急という企業が運営する時代を経て、昭和48年(1973)に保津川遊船企業組合が設立して自主運営することになりました。現在、船頭は110人在籍しています。代々亀岡市で水運に携わってきた家系の方もまだおられ、他所の出身で一般公募により加わった若者もいます。船頭は3人1組で舟に乗ります。まず舳先で長い竹竿を岩や石に当てるなど障害物から船を守る『棹(さお)さし』、その背後に座り櫂(かい)で舟を漕ぐ『櫂ひき』、そして舟の後方で大きな舵(かじ)を持って舟の方向を司る『舵もち』です。経験豊富な船頭が『舵もち』になり、他の二人は一緒に操船をしながら熟練の技を習っていきます。こうした保津川下りの操船技術は、江戸時代初期に保津峡が開削され、筏だけではなく舟も下れるようになって確立していきました」
 
かつて木材流通の手段として使われていた筏流しかつて木材流通の手段として使われていた筏流し。
 
保津川下りは観光として要人らも利用していた保津川下りは観光として要人らも利用していた。

保津峡開削を仕切った角倉了以の公共に資する精神
丹波の木材は、建築材としての樹種だけではなく薪や炭になる樹種も豊富だ。また同地では米も野菜も獲れる。そんな産物を都に運ぶのにも保津峡が行く手を阻んだ。亀岡から愛宕山の西の麓を回り水尾を通り、嵐山に出る山道は古くから通っていた。それは「米買い道」といわれ、丹波国と都を西側でつなぐほぼ唯一の農産物通商路だった。そこに江戸幕府が開かれて間もない慶長11年(1606)、保津峡開削工事が行われ保津川が舟運河川として開疏したのである。
保津峡の開削事業は実業家の角倉了以(すみのくら・りょうい、1554〜1614)が企て、徳川家康の許可を取って行なわれた。角倉家は近江国愛知郡吉田村(現在の滋賀県犬神郡豊郷吉田)が出自で、室町時代の中期には幕府のお抱え医師となった。その後、嵯峨を拠点に土倉業(金融業)も営むようになり、了以は嵯峨の角倉家に生まれた。長じて朱印船貿易の事業に進出し、安南国(ベトナム)との貿易を切り開いていった。しかし、徳川家康が政権を取ると、次第に鎖国の気運が高まり、貿易に代わる新しい事業を考えるようになる。それが河川土木事業と舟運事業だった。現在の公共事業と異なるのは、幕府予算ではなく角倉家が工事資金を出していたこと、そして河川開疏の後は舟運権益を角倉家が独占したことだ。
保津峡の開削工事は5か月ほどの突貫工事だった。舟が通れるように、流域の岩や石、川底を火薬で爆破するなどしつつ削ったのである。とはいえ流域には2mほどの落差の瀬もあり、通常の川舟では運航は難しい。了以が保津峡開削を思い立ったのは、美作(みまさか)・備前(現在の岡山県)で高瀬舟を見たことが大きな理由だといわれている。高瀬舟とは、水深の浅い川や水路を運航するために舟底を平らにして吃水を低くし、荷物を積んで舟が沈み込んでも川底に当たりにくくした小型運搬船である。前出の豊田知八さんはいう。
「舟運権益を独占したなどといいますと、暴利を貪った豪商のように考えがちです。でも、角倉了以はいわゆる政商ではなかったのではないかと思います。根本に公に資する気概があったように私には思えてなりません。舟運による薪炭と米や野菜などの農産物の輸送は角倉家が行ないましたが、それまでの筏流しによる木材輸送事業は手を付けませんでした。筏師としては開削工事によってより安全な運航が可能になり、そのうえで舟運事業を行って保津の地に高瀬舟船頭という新しい職をつくっていったのです。舟の材質は木材からFRP(繊維強化プラスチック)へと替わりましたが、操船技術は保津峡開削の時代のまま今に伝わっています」
 
昭和初期までは荷船も盛んに利用されていた昭和初期までは荷船も盛んに利用されていた。

保津川における人と川との距離を遠ざけない試み
角倉家の公共に資する精神を裏付けるものに、朱印船貿易における「舟中規約」がある。了以の長男、角倉素庵(すみのくら・そあん、1571〜1632)が思い立ち、恩師であった儒学者の藤原惺窩(ふじわら・せいか)に書かせた朱印船で船員が共有すべきとする規約だ。
一、    貿易は有無を通じて人と己を利するもので、人を損ねて己を益するものではない。
二、    異国は我が国と風俗言語が異なるが、それは天賦の理であって、異なることを怪しみ、欺詐、慢罵があってはならない。その国の禁諱を問い、その国の風教に従うべきである。
三、    同舟の人に患難、疾病、凍鞖があれば、救わねばならない。独りは脱れようとしてはならない。
四、    酒色は人を溺れさせるから、ともに匡正して、これを誡めなければならない。
舟員としての倫理を主に説きながらも、垣間見える貿易論や異文化交流論は現代でも参考になりそうである。保津峡開削に当たって素庵は了以の右腕となり、父亡き後は舟運事業を統率していった。
こうした角倉父子まで遡ると、現在の保津川下りは400年以上も前の操船技術を今に伝えるものだとわかる。物流から観光へと支える事業は変わっても操船技術は受け継がれたのだ。平成29年(2017)、亀岡市は保津川下りの操船技術を民俗無形文化財に指定した。
水の道としての役割を川がなくしていくと、人の暮らしは川から離れていった。しかし、観光によって人と川との距離が遠くない流域もある。保津川流域はその代表だろう。昨今は新しい取り組みもなされている。京筏組(保津川筏復活プロジェクト)という組織が創設され、文化伝承の意味で筏流しを行なっているのだ。文献を紐解き、丸太を結び合わせるのにフジの蔓を使い、その固定のための金具も鍛治職人によって復元したという。
 
現在の観光船としての保津川下りの様子現在の観光船としての保津川下りの様子。

主な参考文献:保津川遊船企業組合編『保津川下り』、亀岡市保津文化センター編『「保」と「津」その歴史から見えるもの』、手塚恵子、大西信弘、原田禎夫編『京の筏〜コモンズとしての保津川』(ナカニシヤ出版)
写真提供/保津川遊船企業組合

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