京の川巡り 第9回 高瀬川
都の大動脈となった舟運路
河原町御池あたりから南が京都の繁華の中心だ。京の5つの花街のうち4つがあり、四条大橋の東詰では南座が歌舞伎発祥の歴史を伝え、祇園の賑わいを横目に抜ければ東には八坂神社。さらに鴨川の右岸は先斗町で、そのひとつ西の通りが木屋町通となり、界隈は日中から人出は多く、夜の帷(とばり)が降りても深夜まで賑わいが続く。そして、木屋町通に沿って西側を北から南に流れ下るのが高瀬川である。三条から四条あたりでの川幅は約4m、水深は水量の多いときでさえ30cmを超えるのは稀だ。せせらぎのような流れだが、高瀬川は旅人が抱く京都の印象を大きく左右する存在だろう。両岸は石積みで川底も石畳の姿は、この川が人の手によって造られた川であることを今に伝えている。
毎年、夏の祇園祭で巡行する背の高い鉾のひとつに鶏鉾(にわとりほこ)がある。その胴の部分に下がる胴掛という飾り布に、大きな船が描かれている。清水寺に保存されていた絵馬を写して新調された胴掛だが、この船は朱印船で、よく見ると船主を示す「角」の字を描いた旗がたなびいている。この朱印船の船主が高瀬川に大きく関わった。天正18年(1590)、豊臣秀吉は朱印船貿易の開業を全国で8人だけに許し、そのうちのひとりが京の豪商、角倉了以(すみのくら・りょうい)だった。そして、了以は長男の素庵(そあん)とともに主に現在のベトナムである安南国との貿易を成功させていった。ところが、武士勢力の頂点に立って京都で施政に当たった豊臣政権は、思いもかけず短命に終わってしまう。代わって徳川家康は江戸に幕府を開く。京都の地は、帝の住まう首都であり続けたが、政治都市の機能は落ちた。
了以が貿易から事業転換を図ったのには、京都の衰退を阻止したい気持ちとともに徳川幕府による貿易の中断の気配を察したからだともいわれる。そして、まず保津川の開削によって都の西の物流路を拓いた。その功あって角倉家は徳川幕府から現在の静岡県を流れる富士川や天竜川の整備の命を受け、その事業を成功させて京都に戻り、慶長16年(1611)から着手したのが高瀬川の開削だった。
「高瀬川」という名の川は全国各地にある。船底を平らにして浅瀬でも走航可能な「高瀬舟」を通す人工の水路を総じて高瀬川と呼ぶ。豊臣政権の最中、京都・東山の方広寺に大仏が置かれ大仏殿も築かれたが、災害にあってしまう。その修復は徳川政権になっても続き、了以は当初、鴨川を使った木材輸送を企てた。しかし、氾濫が頻発する鴨川は手強かった。そこで、並走するように高瀬川の開削を思い立つ。こうして、3年の歳月を経た慶長19年(1614)、二条で鴨川から取水し、東九条南松ノ木町でいったん鴨川に戻り、今度は左岸で再び取水して竹田街道に伏見まで流れる全長約10.5kmの舟運水路が完成したのである。現在は、京都御所東側にある京都府立医科大学附属病院の鴨川取水口から続くみそそぎ川より取水され、東九条から南は東高瀬川と名付けられている。
「拾遺都名所図会」に描かれた高瀬川。提供/国際日本文化研究センター。
立誠ガーデン ヒューリック京都の入口横にある角倉了以の顕彰碑。
豊臣政権の暴走による犠牲者を供養
角倉了以が事業家としての優れていたのは、公共事業を建議して幕府に働きかけ、許可を得ると企画、設計、施工し、さらに水路開通となった後は舟運の運営まで総合的に行ったところだ。高瀬川の舟運で荷下ろし場を舟入(ふないり)というが、二条が「一之舟入」(いちのふないり)で、了以はそこに隣接した地に自宅兼事業所を建て嵯峨から転居した。もちろん、荷は大仏に関わる材木だけとは当初から考えておらず、伏見の酒はもとより、淀川を通じて大坂から三十石舟で伏見に運ばれる全国各地の産品を京都市中に運ぶことを想定していた。これは目論見の通りになって二条から四条までに9か所の舟入ができ、やがて五条までの間には問屋が軒を連ねるようになり、高瀬川は都の大動脈となっていった。
江戸に幕府が移って政治都市として弱体を余儀なくされた近世の京都は、角倉了以、素庵という傑出した事業家の登場により衰退を免れたといっていい。ただ、近世のイノベーションは豊臣政権下、そして幕府の主導ですでに始まっていた。都の南では木津川、宇治川、桂川の三川合流の基礎を造ったうえに城下町として伏見を整備。一方、市中ではなんといっても「御土居堀」の築造である。都を東西約3.9km、南北約8.5km、全長約22.5kmの壮大な土塁と堀からなる御土居堀で囲ったのである。高瀬川ができるより20年前の天正19年(1591)、築造は正月から始まり5月には完成させてしまう。都を外敵から守るためとも、洛中と洛外を分けるためとも、鴨川の洪水対策とも推察されるが、築造の真意はわかっていない。それでも、京都における水と人の関係研究を専門にする京都産業大学教授の鈴木康久さんは、「洪水から守らなければいけない部分を強化している」と考えている。
この御土居堀の築造によって鴨川の右岸に新たな町をつくる空間が生まれ、やがてそこに高瀬川が通るのだが、それまでの間、世は激動する。分岐点は秀吉の甥、秀次の切腹だったといえるだろう。世継ぎに恵まれなかった秀吉は関白を秀次に譲った。その後に直系の男児として秀頼を授かった。自身の地位を危ぶんだ秀次は謀反を画策し、それが発覚して秀吉が切腹を命じたとの公式文書は残る。だが、切腹には別の理由があって謀反の企ては政権の捏造だったという説もある。だとすると切腹のほぼひと月後に起こったことはまったくの悲劇というほかない。幼子も含めた秀次の一族39人もが公開処刑されたのだ。文禄4年(1595)8月2日、処刑場所は鴨川の三条河原であった。処刑場所に亡骸は葬られて塚ができた。木屋町通三条下ルにある瑞泉寺は、その塚があった場所に建立された寺だ。22代目住職である中川龍学さんはいう。
「高瀬川の開削を始めようという頃には塚は相当荒れてしまっていたようです。当初はピラミッドのように築かれたのが、鴨川の洪水によって壊れ、草に埋もれて花をたむける人もなくなっていった。寺伝によりますと、秀次公の一族に以前から同情していた角倉了以は、高瀬川の開削を始めた年に一族を長く弔うことを思い立ったそうです。そして、浄土宗西山派の立空桂叔(りっくうけいしゅく)和尚と協力し合って、荒れた塚を整理し当寺を建立したのです。山名は高瀬川を往来することになる舟にちなんで慈舟山とし、寺名を京極誓願寺の教山上人が秀次公へ贈った法名『瑞泉寺殿高巌一峰道意』から瑞泉寺となりました」
建立から72年後、角倉家から巨材の寄進によって現在の寺宇に近い規模まで建物が整った。さらに昭和17年(1942)にはパナソニックの創業者である松下幸之助が発起人になり、地蔵堂が作られ引導地蔵尊が祀られた。寺を守る中川さんは、こう話す。
「残虐な処刑が行われた場所が、事業家たちの力添えで供養されました。寺だけではなく高瀬川からは、町衆たちで町をつくる、町を守るのだという力近強い意思を感じます」
かつて角倉了以の別邸だった場所は現在和食店となっているが、鴨川に面したその東側のみそそぎ川には取水口がある。
木屋町三条にひっそりと佇む瑞泉寺。高瀬川界隈に来たら足を運びたい。
高瀬川沿いには現在も町衆文化が健在
高瀬川の川幅は7mほどだった。そこを通る高瀬舟の舟幅は1.6mから2.8mと統一はされていなかったようだが、いずれにしても上下並行して走航することはできなかった。一方通行にして上りと下りを時間帯で分けたのである。上りは流れに逆行する。高瀬舟の動力は人力だ。それも漕ぐのではなく陸から舟につないだ縄を曳いて上ったのである。舟曳きの船頭は伏見の男衆が多かったというが、さぞかし偉丈夫だったのだろう。13艘から15艘を縄でつないで船団を作り、それを数人で曳いた。朝は上りの時間帯で最盛期には200艘近い高瀬舟が伏見から出たという。積荷は酒、米、醤油、ニシンといった食料品のほか畳、鍋、鉄、荷車の車輪など。七条あたりまで2時間で上ってきたそうだ。下りは流れに乗って大戸棚、漆桶、平瓦、扇子紙、松茸、九条葱、芋などを積んだ。舟入は最盛期には9か所に造られ、藩邸、旅籠、料理屋も高瀬川沿いに建ち並んでいった。まさに川に沿って町ができていったわけである。
船頭が高瀬川で舟を曳く様子。写真提供/立誠自治連合会
高瀬川に架かる橋のたもとの碑には、大正時代に建てられたものもある。
高瀬川の舟運は近世だけにとどまらず、最後の舟が上り下ったのは大正9年(1920)のことだったというから、つい最近まで往時を知る人びとは存命で、高瀬川を中心にした町の記憶はまだまだ古びていない。古くから川の掃除は町組が負っていたようで、それは舟運が終わっても引き継がれ、三条から四条の間を新洗組が美化に尽力。また上流から銅駝、立誠、永松の3つの高瀬川保勝会ができ、それぞれ町内で高瀬川にまつわる歴史を今に伝えることにも努力している。京都市中の町組は明治になってすぐ、国が学制を整える前に自前で小学校を作った。いわゆる番組小学校だ。そこは子どもたちの教育の場であり、校内に火の見櫓(ひのみやぐら)を設けて防災機能・警察機能も備えた町組の活動拠点でもあった。高瀬川保勝会のある町組それぞれに小学校があった。その中で近年注目されているのが、かつての下京6番組小学校、後の立誠小学校だ。残念なことに平成5年(1993)に閉校となってしまったが、高瀬川に面した昭和3年(1928)築の鉄筋コンクリートの校舎はヒューリックホール京都と立誠自治連合会が協議し、ホテル、商業施設とともに町人、旅人が憩える場として再利用されることになった。立誠高瀬川保勝会、立誠自治連合会の世話役を長く務めた諸井誠一(まこと)さんはいう。
「私の父親は東京の築地の生まれなんですが、昭和3年に京都へ移ってきて河原町通で天ぷら屋を始めました。当時は店と住まいがいっしょというところが多くてね、うちもそうやったんで、私は立誠小学校に上がりました。高瀬川に特別な思いがあるかと聞かれますと、どうも不思議な感じになりますねぇ。いつも目の前にあって、そこにあるのがごく当たり前なんやな。川の中に自転車が放り込まれていたような時代もあったわけです。うちもそうですけど、店をやる人たちも次第に住まいを他所に持つようになっていきましたが、ずっとこの町で商売させてもろうてきたわけやから、高瀬川の汚れているのを見たら放ってはおけません。そのうちに大学生のグループが加わって、今では毎月第2土曜日の午前中に高瀬川のゴミ拾いをしています。店に通ってきている従業員も来てくれはりますし、旅行されている方が手伝ってくれることもあります」
令和5年(2023)、立誠自治連合会では高瀬舟を復元した。まだ真新しい木肌の舟はTHE GATE HOTEL 京都高瀬川 by HULICと商業施設が入る立誠ガーデン ヒューリック京都内に展示されている。また、高瀬舟は二条の一之舟入にも浮かんでいる。こちらは一之舟入が国の史跡に指定された昭和57年(1982)に、銅駝高瀬川保勝会が復元したものである。
「立誠小学校は、日本で初めて映画の試写実験をした場所でもありまして、私たちは『日本映画原点の地・立誠』として映画を中心にした芸術文化で町づくりをしているんです」と諸井さん。高瀬川界隈では今も町衆文化が健在だ。
川沿いにはハナミズキ、ユキヤナギ、ヤマブキ、そしてサクラが植えられている。高瀬川でのサクラの花見時期は二度ある。枝で花が満開になったときと、花びらが散って川面に花筏ができるときだ。川沿いの町衆文化とともに楽しみたいものである。
御池通のすぐ南側にある高瀬川一之舟入。記念撮影に訪れる人も多い。
3月末には高瀬川沿いのサクラが満開となり、木屋町界隈は夜も花見客で賑わう。
主な参考文献:石田孝喜著『京都 高瀬川〜角倉了以・素庵の遺産』(思文閣出版)、鈴木康久・肉戸裕行著『京都の山と川〜「山紫水明」が伝える千年の都』(中公新書)。立誠自治連合会編『映画はここから始まった〜立誠小学校 番組小学校150年記念これまでとこれから』