投稿日: 2026年03月18日(水)

川の京都 京の川巡り 第10回 井手の玉川

井手の玉川

奈良時代から数多くの和歌に詠まれてきた
「玉川」という名の川は、「高瀬川」と同じように各地にある。その数では玉川が勝り、地理学者の玉井建三さんの調査によれば、北海道から九州まで見つかり、合計するとその数は90にも上ったという。「玉」は古来、美しい石というだけではなく、勾玉が示すように魂を重ね、呪術的な観念も込められた神秘の石であった。また、帝が座るのは玉座といわれ、芸妓らも玉と例えられてきた。玉川は、単に清流であるばかりではなく、それを超える呪力を感じて名付けられたのである。
そんな数ある玉川の中でも、古くから文人墨客を誘い、多くの和歌に詠まれて歌枕として称えられ続けてきたのは「六玉川」だ。滋賀県草津市の「野路の玉川」、大阪府高槻市の「三島の玉川」、東京都調布市の「調布の玉川」、和歌山県高野町の「高野の玉川」、宮城県塩釜市の「野田の玉川」、そして、京都府井手町の「井手の玉川」である。井手町は京都府南部の綴喜郡(つづきぐん)に属し、南の木津川市を越えるともう奈良県だ。町の約7割が山林で長閑(のどか)なところである。郷土史家の宮本敏雪さんはいう。
「奈良時代の中頃の政治家に、藤原氏と競いながら力を持っていった橘諸兄(たちばなのもろえ)がいます。諸兄は井手に別邸を構えたことから『井手の左大臣』とも称せられました。聖武天皇は藤原広嗣の乱の後、今の木津川市加茂町に恭仁京(くにきょう)を築いて遷都しました。これは諸兄との縁です。玉川の中流部に井手寺跡という史跡があります。推古天皇の時代に山背大兄王(やましろのおおえのおう)が創建したものを諸兄が再建したとも、そうではなく諸兄が創建したのだともいわれていますが、井手町に残る奈良時代の重要な史跡です。当時、奈良と京都を結ぶ大和街道も通って政治家や商売人だけでなく、風流を求める貴人たちも訪れるようになり、やがて平城京からも平安京からも少し離れた風光明媚な遊里として和歌に詠まれていったのです。江戸時代になると油の産地になります。菜種油だけでなく綿実油。綿繰りをして取り出した種を搾る。そのために玉川の流れを使って水車を置いたのです。その頃になると井手は宿場となって人通りは前にも増して多くなったようで、宝暦4年(1754)の地図に『山形屋権兵衛』と大和街道沿いに記されています。うちの先祖です。どうやら旅の人を泊めていたらしい。玉川の下流で、このあたりは家々の方が低く、玉川は天井川になります」
 
都名所図会に描かれた井堤の玉川都名所図会に描かれた井堤の玉川。画像提供/国際日本文化研究センター
六玉川には、野路の玉川が萩、三島の玉川が卯の花、調布の玉川が染め布を晒す様子、高野の玉川が桔梗、野田の玉川が千鳥と、それぞれに名物があった。井手の玉川のお目当ては山吹と蛙。山吹は黄色の花を桜の花が散り終わってから咲かせる。井手の玉川沿いでは橘諸兄が植えさせたともいわれている。蛙は鳴き声が涼やかで特徴あるカジカガエルだ。

色も香も なつかしきかな蛙鳴く 井手のわたりの 山吹の花

そう詠んだのは平安時代前期の歌人にして絶世の美女とも称えられた小野小町である。小町は晩年に井手寺で暮らし、そこで亡くなったとも伝えられている。
 
小野小町の歌が記された歌碑小野小町の歌が記された歌碑。


山吹とともに桜の名勝として知られるように
井手の玉川は東の山間に端を発し、西を流れる木津川に注ぎ込んで井手町を東西に横断して流れる。河川名を「水無川」としてきた時代もあり、普段の水量は今も多くはない。長さにはふたつの考え方があるようで、河口から約2.5kmとも、さらに上流まで含めて約6.5kmともいわれるが、行政の上では約2.5kmの方をおおむね採用している。いずれにしても、一級河川ではあるが小川といってもよさそうな規模だ。
下流部の土手には、今でも山吹がある。そんな玉川へは京都駅からJR奈良線に乗って玉水(たまみず)駅で降りて歩く。奈良線が敷かれたのは古い。明治28年(1895)にまず京都駅と伏見駅まで開通した。さらに延伸工事は続き、翌年に井手まで通じて玉水駅ができ、一時的に終着駅となった。ローカル線の雰囲気のあるホームに立って南の奈良方面に目をやると、ホームのすぐ先に細い鉄橋が奈良線の上に架かっているのが見える。その50mほど先に天井川となった玉川がある。川の下を列車が潜るとは珍しい。鉄道マニアの好奇心をくすぐりそうだ。
小さな駅舎を出ると車溜まりの奥手に、『銘木カフェSHIKI』の看板版がつつましくあった。入って地元の食材、タケノコを使った料理で昼食とした。どうやら、この店は井手町に新しく生まれた交流の場になっているようだった。カフェの裏手の母屋の一部はゲストハウスになっていて、さらに奥には駐車場のある平屋が立っていた。銘木の倉庫と販売所を兼ねた貸しスペースで、小さなコンサートなども開くことができるそうだ。山川知恵里さんがお母さんとともに切り盛りしている。
「明治時代後期からの元製材所で、それを継いだ父は建築の設計もしましたが、学者肌というか、木材の研究にも熱心で、日本国内ばかりか世界各地から銘木を集めてコレクションしていきました。でも、父は早くに亡くなってしまったんです。それで、ここをどうしようかと親戚にも相談しつつ、母と私は井手町に住まいを移し、今の店を始めました。もともと私たちは木津川市で暮らしていましたから、井手に縁がありながらも新しい移住者ですね。この町には住んでいる人たちが交流できる飲食店が少なかったので、飲んで食べて話がはずむ場所を作りたいと思うようになりました」
山川さんは毎週金曜日と土曜日の夜、奥手の平屋と駐車場を使って「夜市」を開いている。備え付けの小さな調理場ではイタリア料理の心得のある町内在住の若い男性が腕を振るい、駐車場にはキッチンカーがやってくる。そして、根っからの地元の人たちや新しく井手に移り住んだ人たちが集まる。営業よりも世代間交流が主体の運営だ。
 
『銘木カフェSHIKI』の名物カレー山吹の花を模した玉子がのった『銘木カフェSHIKI』の名物カレー。
 
玉水駅そばで週末に開催される「夜市」の様子玉水駅そばで週末に開催される「夜市」の様子。

そんな新しい憩いの場がある駅前から5分も歩けば玉川に出る。現在の玉川土手は桜の名所である。下流部を中心に玉川の両側に植えられ、その距離はなんと約1.5km。約500本のソメイヨシノが満開になれば玉川を中央にした桜のトンネルのようになり、平成4年(1992)から毎年3月下旬から4月上旬まで「玉川堤桜まつり」が開催されている。
かつて玉川の象徴だったカジカガエルは、京都府のレッドデータベースで「要注目種」になっているように、府内全域で数が減ってしまった。井手町では「声を聞いた」との証言が僅かに報告されるばかりだ。それでも桜が終われば山吹が咲き、さらに6月になると蛍が舞う。こうした遠い奈良時代、平安時代の風景を取り戻していく町作りには、地元の人々で構成される井堤保勝会の力が大きい。仁木鉄茨さんは保勝会の会長職を長く務めてきた。
「昭和28年(1953)に井手町を含めた南山城一帯は大水害に見舞われました。玉川の上部流部には大正時代に灌漑用の溜め池として大正池が作られましたが、それが集中豪雨で決壊したのです。水害の前、玉川は今の3分の1ほどの川幅しかなかったそうです。玉川の流域は大被害となりまして、被災後に復興工事と並行して保勝会が桜を650本、山吹を6000株、そして楓を160本植えました。その後の樹々の剪定、害虫駆除のほか、川の掃除、さらに土手に21基の歌碑を建てて、史跡の保全も保勝会で担っています。もちろん、こうした活動は京都府や井手町の支援を受けております」
 
玉川沿いのソメイヨシノ毎年、玉川沿いのソメイヨシノが咲き、春の風物詩となっている。

歴史を継承する営みが流域の文化に
井手の玉川の歴史は1000年前にもなろうという時代まで遡れ、現代との間に横たわる長い時の流れは、次世代への歴史の継承を難しくしている。若い人が町の外に出ていくことも少なからず、関係人口を増やそうと旅人の誘致や移住相談も行っている。時の流れによる変化を受け入れ、なお郷土の歴史を継承しようとすれば、実際の風景よりも古人の心を継承することが有効になる。その点でいうと井手の玉川は幸いだった。古くから和歌が詠まれて古人の心の跡形が現代にまで残っているからだ。

山吹の うつるふ影に五百年に すむ名も色に 井手の玉河

と詠んだのは江戸時代初期に在位した後水尾天皇である。そのときすでに500年、現代はさらに400年以上が過ぎている。井堤保勝会では平成9年(1997)年から井手の地をお題にした短歌と俳句の一般公募を始めた。地元の小学生たちも参加し、集まった作品を識者が審査して秀作を表彰するととともに、応募作品を短冊に書いて「玉川堤桜まつり」の期間中は桜の枝に掛けている。文学を通して1000年にもおよぶ井手の玉川の流域にある心の文化を受け継いでいこうとしているのである。
 
桜に続き、山吹が咲き乱れ、人の目を和ませる桜に続き、山吹が咲き乱れ、人の目を和ませる。

ところで、今や全国各地の名勝にある保勝会だが、その発祥は京都だ。明治維新の立役者のひとりである岩倉具視が、明治14年(1881)に「京都保勝会」を発足させたのが始まりである。保勝というのは保全にきわめて近い意味として使われる。岩倉は京都の公家に生まれた人だ。明治になって東京に首都機能が遷って京都の保全が手薄になることを予期して保勝会を作り、御所や寺社仏閣、遺跡、史跡の保存を住民の活動として根付かせようと考えた。これが徐々に各地に広まり、大正末から昭和初期にかけて「保勝会運動」ともいうべき機運が起こり、その数を一気に増加させた。井堤保勝会の発足は古く、明治31年(1898)だというから岩倉具視による京都保勝会の発足から17年後のことである。井手の玉川の流域文化を継承しようという住民意識は早くに束ねられたのだ。
また、平成13年(2001)には町内の有志4人が立ち上がって「井手町ガイドボランティア」という組織を作った。訪れる旅人が町内の史跡、名称を歩く手助けをするためである。前出の宮本敏雪さんは立ち上げメンバーのひとりだった。
「おすすめのハイキングコースを6つほど選定しました。その中には山背(やましろ)古道や玉川の最上流まで訪ねる長いコースもあるのですが、そのうちの3つは適度な距離です。約5kmがふたつ、約9kmがひとつ。ただ、いっしょに立ち上げた3人の先輩たちは他界し、私も90歳を過ぎました。前々からガイドの後継者を育てることが課題で、私は頼まれれば講習会を開いて話をするようにしています。最近は若い人もちらほら出てきました。他所から移ってきた人にも熱心に井手の歴史、文化を学ぶ方がいますよ」
井手の玉川には、古人が残した読める文学とともに、語る文学も継承されているようだ。桜が咲き、そして散った後には山吹が咲く。現代の井手の玉川では、歴史を守る人と町に新しい風を吹かせようとする人の営みがあり、それらが折り重なって流域文化を作っている。

 
玉川の土手は「歌碑の道」と名付けられ、散歩する地元の方からも親しまれている玉川の土手は「歌碑の道」と名付けられ、散歩する地元の方からも親しまれている。

主な参考文献:玉井健三著『玉川の文化史〜六玉川の古歌と風土』(創風社出版)、井堤保勝会『井堤保勝会』、井手町史編集委員会『井手町のくらしと歴史』(井手町)
写真提供/井堤保勝会

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