川のサイクルツーリズム 第5回「古川」
太平洋戦争以前、京都市の南側には巨椋池というとても大きな池がありました。今その跡地には巨大な農地が広がり、そこに池があったと言うことを認識している人がいるのかとも思いますが、平安時代から戦国時代あたりの話を調べていくと、ふと「そうか、当時はここに陸地はなかったんだ!」とか、「宇治川や木津川は今の場所にはなかったのか」と言うことに気づき納得しました。
木津川も今の場所よりもう少し東側、城陽のあたりではちょうど古川のあたりを流れていたようです。そう考えると宇治や淀、石清水八幡宮なども今とは景観も違いますが、そこに存在していた意味も違っていたのだろうと思います。ちなみに向島や槙島など、「島」の地名があるのも巨椋池時代の島の名残です。
私は子供の頃からこの地域で育ってきたので、巨椋池の干拓地や古川界隈でよく遊んできました。最近は地道(グラベル)を走るグラベルバイクと言うものが世界的に流行していますが、私も古川の土手にあるグラベルを良く走っています。
城陽の町の中を流れる古川ですが、城陽市民もよく知らないことが多い川です
古川は城陽の山手からの水を集めて東一口(ひがしいもあらい)で宇治川に合流します。今の木津川よりももう少し東を流れていたと考えると、昔は今の場所に古川は存在せずに早々と木津川に合流していたのではないかと思われます。いろいろと巨椋池のことなども調べていると、古川もなかなか面白いなぁ、自転車で走ってみようと思いました。
そうは言っても走りごたえを感じるような距離はなく、せいぜい10㎞ほどです。天気のいい日の散歩と考えれば本格的にサイクリングを楽しんでいる人でなくても走れる距離です。
古川沿いに道が繋がっていますが、そのほとんどはグラベル(地道、未舗装路)です
京滋バイパスと第二京阪ジャンクションの下に、古川は流れています
古川が宇治川へ合流するところは、現在は排水機によって合流しています
古川の源流ってどこだろう?と探していると、国道24号線を跨ぐように古川の橋が架かっており、住宅地を抜けて山手の方へ向かっていきます。途中からは明確に「これが古川」というような看板がなくなります。
調べてみると近鉄の線路を越えたところからは「宮ノ谷都市下水路」で、さらに上流へ行くと大河原川や宮ノ谷川になります。支流などと合流のたびに水量が増えるのが川の常識ですが、古川は合流する前から水量が多いと感じました。古川という川を育てているのはどうやらこの源流からの水だけではなさそうです。
国道24号線を越えてしばらく行くと合流地点に。写真左側が古川、右が今池川
水渡神社(みとじんじゃ)の前を流れる宮ノ谷川が一番古川をさかのぼったところにある川と言えそうです。最後は住宅地の水路みたいな感じで終わっており、水が湧き出ているとかそんな感動的なエンディングでなく肩透かしでした。他にも今池川、そしてもうひとつは久御山から大久保駅の方へと流れている名木川、これは柿本人麻呂が詠んだ「衣手の名木の川辺を春雨に我れ立ち濡ると家思ふらむか」がここだと言われています。
古川をさらに進むと宮ノ谷川。水渡神社の前を通過していきます
そして大久保駅手前で東城陽中学校の方へ流れていく川もあります。これはどうやら大谷川というようです。この辺りは丘陵地ではあるけど、自転車を漕いでいても苦になるほどの坂ではないです。
ちょうど今年は降水量が少ないことが話題になっていたので、途中で川底から水がなくなった時に「ああ、ここも水がないのかなぁ」と思ったのですが、さかのぼっている途中で面白いものを発見しました。
東城陽中学の手前ではコンクリートで固められた底には水が流れていません。が、校門を過ぎてしばらく行くと確かに川に流れがあります。
この水はどこで消えてどこに行くのだろう、と。
大谷川がコンクリートで固めれていますが水がない。しかし上流では流れがありました。流れはどこにいくのだろう
古川を調べているうちにふと面白い文章を見つけたのを思い出しました。
城陽の水は地下水で、城陽市内の低いところから湧き出ている、というような内容でした。
それならば大谷川の水がコンクリートで固められた底のさらに下に沁み込んで、低地まで地下を移動して古川に合流するのでは、と思っています。
城陽の丘陵地に降り注いだ雨が川を、そして地面に沁み込んでそのまま寺田の方に集まり、古川を形成して流れていくのだと思いました。
そんな古川のグラベルを、ゆっくりと、時には押し歩いたりしながら進んでみるのも面白いと思います。